水がある限り金魚は泳ぐ

本と読書と映画とドラマ、そして雑文。

『エクソダス 神と王』〜将軍から良き夫。人生には割合がある

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 難しい映画だと思う。

 いろいろな違和感が頭をよぎる。専門的な部分はどうなのかという指摘があるだろうし、それは至極当然のことだとも思う。自分の生まれ育った国、宗教、慣習などを正確に捉えてない作品はあるものだし、時に、日本とは言い難い日本も何度か観ている。だから歴史、宗教、国家、人種とさまざまな意味で難しい映画だと思った。

 

 だが、興味深い。

 将軍で王と兄弟のように育った男なのである。おそらく20年ほどは、そうだっただろう。母は王族だった。そのときのモーゼは、血はつながっていない母に愛され、血のつながった姉に素性は隠されたままで見守られていた。部下にも慕われていた。何不自由ない 20年。そのあと、エジプトを追放され、一人で過酷に生き抜いた時間がある。時間は把握できないが、1年としよう。孤独な1年。刺客の物資を奪い、なんとか食いつなぎ得たのは、小さな村での羊飼としての暮らし、美しい妻と子供との暮らし。愛情がある家族の暮らし。彼がエジプトに戻る決心をするまで9年とテロップが出た。

 彼がエジプトに戻り、出エジプト記に到る道のりが何年かはわからない。だが、歴史で知られるモーゼは、ここから。家族を捨てエジプトに戻って、王と交渉しながら、神が数多くの災いとエジプトにもたらし得た自由を最後まで守り抜き、海を渡った有名な話に至るまで、石板に十戒を刻むまで、彼は、将軍だったのである。王の兄弟で、王族の息子だったのである。

 そして、一人でサバイバルを生き抜いた孤独を知る男、そして、家族を持つ父。

 生まれて死ぬまでの人生、誰もが子供であり、少年少女であり、青年壮年、そして歳を経ていく。途中で人生を終わる場合もある。だが巻き戻せば、何年かは恋をしていたかもしれない。何年かは一生隠したい秘密を抱えていたかもしれない。

 だから興味深いのである。モーゼの愛した女性は彼を受け入れるに足るたくましさがあり、子供は父の思い出をしっかり覚えていた。歴史に刻まれたモーゼとは違う姿があるのはごく当たり前のことなのだ。

 

「それでも夜は明ける」〜痛みと理不尽の世界に未来はない

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 1861年から1865年にかけてアメリカで起こった南北戦争。それ以前、1841年にワシントンD.C.で誘拐され奴隷として売られたソロモン・ノーサップの体験記がベース。

 

 「PLAN B」の名前がオープニングにあったことから、ブラット・ピットが所有する映画制作会社が作品に関わっていることを心に留めてみることにした。最初は社会性のある佳作の印象だったが、今や信頼できる作品に関わることが多いと言われている。彼がどれだけプロデューサー業に関わっているかを知る術は私にはないが、2011年の「マネーボール」とういう作品以降、ずっと気になっていた。

 

 冒頭のソロモンの家族の団欒、ご近所との穏やかなやりとりから一転、両手両足を鎖でつながれることになる。物凄い戸惑い。当たり前だ。バイオリンでお金を稼げるアーティストとして生活してきたのだ。簡単に受け入れられるはずもない。

 日本でもたくさんの人が「家」に住んでいる。借家でも持ち家でも。ソロモンもそうだった。だが、奴隷として売られたソロモンは、掘建て小屋で暮らし、粗末な食事で労働を強要され、一方的にムチ打たれる。逃げようとしたこともあるが、その途中、見つかって首に縄をかけられ殺された黒人を目の当たりにする。彼はソロモンではあるが、プラットと呼ばれていた。彼はソロモンならば殺されなかったが、プラットである限り、同じように簡単に殺されることを知る。

 何度もムチで打たれる場面があり、奴隷として働く者たちの背中はとても痛々しい。心も枯れ果てて虚な目もまた、観る側の痛みになる。彼らを積極的に助ける側に立つ登場人物はいない。願うがいない。

 プラットは何人かに希望を託し、自分が黒人を奴隷として労働させない地で生活していることを証明しようとするが、なかなかうまくいかない。やがて出会う、自由な考え方を持つ、家づくりの職人が密かに動くことで、プラットはソロモンに戻り、12年ぶりに家族と再会する。

 この映画は奴隷たちの痛みを和らげる人物がいない。代わりに、この歴史に刻まれた暗黒の制度に利した者に、必ず報いがあることを明確に表している。晩年のソロモンの活動でも、白人を罪に問えなかった部分もあり、また、現在においても、完全に問題が解決したとは言い難い。だが、人を攫い、売り飛ばし、所有することを「是」とする世界に、未来はないのである。

 

 

 

書きにくい、やりにくい

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 専門家ではないので書けないなと思うことがある。たいした影響力もないが、読んでもらうことを意識すると読む人の立場になれば書けないと考えることも。または言葉を選んで、相手を慮って、うまく話がつながらなくなる、のでは、ないか?と自問自答することある。

 ときどき思い出すのは、映画の「銀魂」で、パロディを使い倒して、あやまり倒しているというエピソードである。または、またあそこか?と笑って許される場合もあるという。かといって、やりたい放題はよくない。著作物に対する敬意は、自分が逆の立場になればわかる。でも、あやまって許されるのか?と思うと人間っていいもんだ、と思えたりする。

 最近、MMT(Modern Monetary Theory:現代貨幣理論)ムーンショットってのに興味をもってネットの記事を読んだが、ブログでまとめようとして止まってしまった。ムーンショットは、アバター10人の話になるときっと夢物語になる。Googleが採用しているという話だと、ちと、有用な情報に思える。個人的には、部活動ができて1年目の野球部が甲子園で優勝を目指すという目標を持つことに近いと思う。化石燃料がないとまだまだ成り立たない生活なので、自分の身近な生活で地球を壊していると分かっていても・・・というものはある。知らず知らずわかっていても、棚にあげるのだ。

MMTについては長所短所って感じで受け取ったがホントにどんな言葉つかったらよいかわからない)

 棚上げ案件は正直つつかないで〜と赤面し、勉強不足、認識不足で、書かない、書きにくい、書けないという選択肢はとってもいいとは思う。だが、書けない世の中にしてはいけないのだ。やりにくいこともあるが、何が引き金で不十分な文章になろうが、自分の意見を発信できないからと押し込めることが、ごく普通になってはいけない。もちろん、敬意を気遣い、思いやり、優しさは失ってはいけないと思う。

 

 

ムーンショット型研究開発制度

 

 

 

「ゴールデンスランバー」〜逃走劇とギリギリのライン

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 事の始まりは、ギリギリのところで踏みとどまった友人の死。そのとき、画面は逃走劇が最高に面白くなるカメラワークになる。テープが切れた、ファンファーレがなった、主人公の人生が切り替わる、瞬間。位置がわかる、爆破がわかる、敵がわかる、組織が見える。ぐいぐいと引っ張っていく、先の見えない人生のスタート。配送業を生業にしようと仲間と生きていく道から思いっきりそれる。急転直下。

 人気のアイドルを助けたお人好しの青年は、彼を知る人なら誰もがありえないと思う大統領候補殺害の犯人にされる。そして用意された人生は、犯人として命を落とすこと。それで幕引きがされれば、とある陰謀の隠蓑となる。

 

 逃走劇の中で走り続ける彼は、望んだ道にから離れて、陰謀の成立のために用意された最悪のシナリオからも離れて、その間を縫うように生き延びようとする。バンドをしていた仲間との青春が絡み、挟み込まれる。

 あの子はやっていない、と。逃げろと、生き延びよ、と。

 彼が色濃く引き継いだであろう気質が、マスコミに囲まれて父によって表現される。間隙を縫い、ギリギリを走っていた彼は、その父のおかげで踏みとどまり、絶壁の崖も落ちずにいた。政府の組織にいた協力者の男性は、また別の道を彼に提示する。生き残る道を。

 何度も、彼の逃走劇のスタートをつげた友人の死が思い起こされる。青春を思い出させる曲、命令されたように友人を犯人に仕立てて殺すはずが、最後まで友人である道を選び、自らを犠牲にした。

 

 ギリギリのラインがある。

 選択肢のどちらを選ぶかに正義も悪もへったくれもない。どんななマスコミの報道も組織の発表も信じられないかつてのバンド仲間は彼を信じていた。

 逃走の途中で、父が息子の無実を信じる封土をみて、食事を提供していた女性が、通報をしようとする客の男をとめて、見て見ぬフリをしようとした。彼が助けたアイドルは、いつか恩返しをすることしか考えてなかった。

 ギリギリを走っていて、倒れそうになったとき、落ちない持ち手、足を置く場所、脱水を防ぐわずかな水、生きる糧が現れることがある。ご都合主義に現れるとは限らないが、まったく、現れないとは限らない。

 生き延びるというある意味、正解とも言える人生の道から体を翻し、友人たちの元へ戻ることを決めた主人公の潔い選択。逃走劇のさなか、生き残り、自分らしく生きる道を彼は選んだ。ギリギリのラインで。

 ゴールデンスランバー。それぞれの時間。胸にある自分らしさが道を選ぶのだ。

「ALONE アローン」〜手探りでどうやって生きるのか。

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一面の砂砂砂。

地雷が埋まっているのはわかっていても、

どこに埋まっているかはわからない。

先を後ろ向きに歩いていた相棒は、足を吹きとばされた。のちに彼は死んで、ひとりぼっちになった兵士は、片足を、固定したまま動けなくなっていた。カシャ。地雷を踏んだ音。体重を預けている限りは吹っ飛ばないが、歩き出せば吹っ飛ぶ。

 

いや、かもしれない、だ。

空き缶を使った手作りの地雷は、必ずしも爆発するとは限らないということを兵士は知っている。生死を奪う条件は、地雷だけではなく、砂嵐、温度差、狼、飢え、脱水。それと、敵。生き残るには過酷な条件だが、命とは、奇跡のように条件が燃える灯火。兵士が学んだ生き残る方法でも、アメリカは誰も見殺しにしない、という言葉ではなく、砂嵐を見つけ、姿勢を低くし、可能な限り体を固定させ耐えたから生き残ることができた。だが、そうやったから生き残ったわけではない。砂嵐を見つけて呆然をたちつくていたら、巻き込まれて、吹き飛ばされたかもしれないが、万全の準備をしても生き残れたとは限らない。

 

誰かを何かを頼るという方法がなくなった世界では、地雷を踏んだ足をどうするか、という命題は、自分が自分できめて行動するということにつながる。

立ち止まるのか、進むのか。

やがて、立ち止まっていることは猶予と気付き、踏み出さないといけなくなる。

いつ、どこで、どんな風にと、決めないといけなくなる。

 

砂漠で地雷を踏んだ兵士は、誰もたよれない状況になったときの自分に重ねられる。正しいとか正しくないとか、そんな物差しではない、決断する前に正解を教えてもらえないから、常に、頭に不正解のブザーが聞こえている。相棒だった兵士のように足を吹き飛ばされ、生きる力がなくなってしまう可能性も。

助けはない。ヒントもない。手がかりもない。

自分で何かを決めるのは、本当に手探り。責任も自分で。

イムリミットはない。時間もない。

砂嵐、温度差、狼、飢え、脱水。それと、敵。地雷とは違う危険もある。

 

手探りだ。自分で、前に進むのは手探り。放棄することも可能。ジエンドへの逃走か、もがくのか、もがいた先のトンネルの果てを夢見るのか。

 

兵士はベルベル人の男と会話しながら、踏み出すことを決めた。その結果は映画でも語られるが、結果よりもこの映画は、ひとりで手探りでどうやって生きるのかの思考サンプルであることの方が、大きい。避けて通れない決めなければならないこと。大袈裟ではないのだ。人ごとでもない。

オペレーションクロマイト〜成功という結果に含まれる負の空席に座る男たちの戦争〜

オペレーション・クロマイト(吹替版)

 

 ハリウッド映画以外の映画をみるのは、世界を広げる作業だと思う。私は朝鮮戦争を語れるほど詳しくないし、感情移入ができるわけでもない。名優リーアムニーソンが立っているだけで語るその存在感を楽しむことくらいできる映画ファンで、マッカーサーを知っているわけではないのに、マッカーサーに見えないけど、当時の将軍の人生を切り取っているのは十分わかる、その凄さにも拍手を送る。

 だがそれ以前に、この映画が語るのは、「戦争」という二文字には、死が確実に存在しているいうことだ。失敗はもちろんのこと、成功にも苦労はある、苦痛がある、それは犠牲という言葉で片付けられない、綺麗事じゃない、泥水飲むような、地べたに這いつくばり、挙句の果ては命を削ることになる「一部分」が含まれていると言っていい。

 それを負の側面というシンプルな言い方をすれば、 マッカーサーと語る任務に志願したチャン・ハクスの清清しい笑顔は、自分が成功すると信じてやまない犠牲を負う側だと信じてやまないように思う。大艦隊で攻撃を仕掛けるのはマッカーサーなのだ。空席は命がけの任務のみである。

 

 実話を基にしたストーリー。アクションも多い。戦闘シーンも苛烈。人民裁判としての銃殺も、ギリギリまで描写する。映画として、娘さん、お母さん、妻を演じた女優陣が清涼剤。ドライバー席で勝気に活動し、銃撃戦で命を落とす男装の女優もかっこいい。逆に男優の見分けがつかないのは、私が観る側として拙いせいか。なんとなく見分けがつく頃に、映画はクライマックス。切ない。

 

 美化してはいけない。そして時にはハリウッド映画ではない映画を楽しみながらも思考し、喜怒哀楽を実感することで、世界をもっと広げられたらいいなと思う。知らないものに出会うことで、大切なものを見つける可能性は広がると思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「残穢【ざんえ】 -住んではいけない部屋-」〜ミルカ、ミナイカ ミエナイカ

 

残穢[ざんえ]―住んではいけない部屋― [DVD]

  背中を向いていると聞こえる、掃除をするような音のする部屋。橋本愛演じる久保さんの手紙を雑誌編集者から受け取った竹内結子扮する、作家である私。いつのまにか二人は共に行動するようになり、久保さんが住んでいる部屋での現象は、部屋ではなく、場所に関わるものだと突き止める。

 

 久保さんが聞いた「音」から始まった物語はすぐに、勘の鋭い子供によって「見える」のことが示唆される。 

 作家が取材する手法で、二人の女性は、歴史をさがのぼる。どんな場所も、その人が住む前に、その建物が建つ前に、誰かがいた。当時を知る人の話を聞きながら、連綿と続くのは、タイトルである「残穢」。積もりも積もって膨れ上がったもの。

 

「殺されたもののゆくえ」という民俗学の本をずーと前に読んでいたから、どんな場所にも以前、さまざまな誰かがいたこをと意識することが容易かった。特に、この映画では、主役クラスの竹内結子橋本愛に、後半にでてくる佐々木蔵之介、坂口健太郎といった華やかななキャストとは別に、その場所に住んでいた、過去の人々は市井の情景で、実力があキャストがリアルに演じていた。彼らのまなざし、悲痛な叫び、恨み、虚ろさ、それらは華やかなキャストが時に打ち消すが、ラストに進むにつれ、消えてはいないことがわかってくる。

 

消えるはずはないのだ。

 

綺麗に冒頭のエピソードと、竹内結子の仕事とが結びつく。時に、なごやかに見える竹内結子と編集者、山下容莉枝だが、全部つながっていることにも気づかされる。物語の構造の恐怖をあえて、華やかなキャストが薄めているとは思う。だが、消えているはずはないのだ。

 

ラストシーン。見えている人にはやはり見えていた。だが、見えない人には見えてないのだ。そしてふと、久保さんのいたマンションに住んでいたことのある若い男性が、自殺するときに、新しいマンションの大家さんに、「迷惑をかけることを詫びる」存在としてでてきたことを思い出す。大家さんは見たのは、この物語の核になる恐怖にからめられた男性だが、自殺することで迷惑をかけることを気に病む優しい青年でもある。

 

ミルカ、ミナイカ ミエナイカ

そんなことを考えた。青年を気遣う大家さんは優しさから彼の姿を見た。どんな場所でもたくましく生きるご婦人方には見えず、そして、見えなかったはずが、見ることになる登場人物もいる。特に、あまり心霊現象を信じてないと思っていた主人公私が、取材によって理解をしたことによりまず、ミルマエに「音」からはじまることになる。

 

私はまた、あの本を思い出す。殺されたもののゆくえ。

よく思い出すのは、古来からその場所でいきてきた人々が文明に追われたエピソード。私たちは何も知らず、そんな場所で生きているのだとまた思い知った。