水がある限り金魚は泳ぐ

本と読書と映画とドラマ、そして雑文。

『新しい王様』〜テレビの外にあるテレビをお手玉にした視聴者への刃

第9話 希望

第1話 お金

 

 ぐっさり、バッサリ斬られた気になって見続けたドラマである。

 藤原竜也さんはわざとアップになって視聴者に訴える。その胡散くささ。アップの藤原竜也さんと、あの独特のイントネーション、アクション、表情があるようで無表情な感じ、整った顔に、整ってない佇まい。それらのトータルでの圧力。演技力ではあるが、演技力以外も付加された迫力に圧倒される。

 感動させる説得力ではないのだ。

 だが訴える力が強い。そんな役者が縦横無尽に画面を行き交い、香川照之さんという稀代の訴求力を持つ役者が、反面の鏡のように存在する。天然で本質を見通す娘と、誠実だが、どこかで簡単にお金儲けをしたいという欲にも勝てない青年が交錯する。自分は苦労せず、うまいことやって、生きていくのが何故悪いの?私何か悪いことした?誰にも迷惑かけてないよね、私だって生きていかないといけないの、だから、うまいことやりたいの、誰が苦労したいわけ?そんな気持ちは大なり小なりある。

 

新しい王様』は、TBSと動画配信サービスParaviの共同制作によるテレビドラマ

Season1(全8回)はTBS系列で2019年1月8日より1月17日の平日23:56 - 24:26[注釈 1]に放送、Season2(全9回)は1月18日(17日深夜)よりParaviで独占配信[注釈 2]という形をとっていたが[1]、Season2も2月19日(18日深夜)より毎週火曜1:58-2:28(月曜深夜)に地上波で放送されることになった[2]

山口雅俊によるプロデュース・脚本・演出で、藤原竜也演じる自由人・アキバと香川照之演じるファンド会社代表・越中テレビ局の買収を企むというストーリー[3]

 

  「投資と融資どっちがいい?」

 香川照之さん演じる投資家の越中が、自分の周りの人々を試すように聞く設問である。融資は返さないといけないから、投資が「得」、ではないのである。融資には融資の考え方があり、投資には投資の考え方がある。その仕組みを知り、相手を知り、質問に答えられるかどうか。

 質問には答えだが、答えはイエスノーではない。その仕組みを考えて自分で納得できれば、どの答えも正解の可能性が増大する。そう、可能性の増大。可能性が増大すれば道は開ける。だがそれはなかなかややこしく難しい。急かされたりする。これ一度きりだと言われる、今がチャンスだと言われる。

 

 果たして、そうなのか。

 

 藤原竜也さんのアキバにより、掻き回され、よく調べない報道をして信用が地に落ち、ドラマも視聴率がとれないテレビ局が買収のターゲットになり、アキバ越中連合がそれぞれの思惑で買収へ突き進む。アキバには志があったが、越中は最後まで投資家で、買い取っては売って、利益を産み続ける。機関銃のようにその手のエピソードがあり、本当に面白い。今思えば、結婚の描写も、愛情も大事だけど人生これからだから、やっぱりある程度は経済力、という筋書きだった(それも仕方ないと思える描き方にはなっていると思う)。

 杉野遥亮さん演じるコウシロウが、化物級のキャラ増幅力を持つ藤原さん香川さんの間で、シンクロしやすい考え方の青年を演じる。武田玲奈さんのエイリが、世間知らずで翻弄されるがブレない姿勢と力強い生命力を見せて清涼剤となる。

 

 最終回が秀逸。

 エイリが立ち寄ったお寿司屋にふたたび、アキバと訪れ、店主と会話する。若林豪さん演じる店主を見て、若者二人は、「ずっとそうであった」存在を観る。変わらぬ立ち位置。自分というもの。テレビに振り回されず、お金に振り回されず、生きてきたのだ。

 

 画面の向こうの視聴者に、アキバは、それでいいのか、という。

 藤原竜也さんのアップと独特のイントネーション。それはテレビの外にある、配信のドラマの中でテレビをお手玉にしているようだ。説教臭くないエンターテイメントだから、楽しめばいいのだが、少しぐらいはアキバの質問を答える準備を視聴者もした方がいいと思った。例えば、ドラマ冒頭、地上波では出せないような、アキバの悪ふざけがある。九州の地図改竄のブラックユーモア。そんなことは絶対あってはいけない、それは何故かというと、と説明することができる人間でないと、アキバの言葉の刃には打ち勝てない。つまりは、ああそうか、とテレビに納得させられ、自分が生きる世界をとんでもない方向に向かわせる一端になりかねないのだ。真っ先に思い浮かぶのが「戦争」である。

『ここは今から倫理です』〜人間は考える葦である

ここは今から倫理です。 コミック 1-5巻セット

 

  たくさん言いたいけれど全部この一言に集約できる。

 「人間は考える葦である」

人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。
だが、それは考える葦である。

彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。
蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。
だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。
なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。
宇宙は何も知らない。

だからわれわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。
われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、
われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。
だから、よく考えることを努めよう。
ここに道徳の原理がある。

 学生のときに授業で習ったうろ覚えの言葉。習った内容以上のことは覚えていない。だが倫理は、この言葉の意味を自分なりに考えてもいいのではないかと自然に思っている。暗記して点数はとれるけれども、社会人になってからの学問は暗記ではない。

 

 相沢いち子に「合意ですか?」と聞く高柳先生は、この物語は代表するシーンであると思う。原作での巧妙な構成や、授業のシーンでも考えるところがあるが、ドラマを見て、改めてこのシーンに多くが詰まっていると思った。

 まず、高柳自身が何をいうべきか考えている。確かめるべきことは何か。恋愛がセックスと関連していることを彼は否定したくないと思っている。だが犯罪につながることは忌避したい、なんとしても。それは確かめるために一番必要な言葉を端的に言わなければならない場面で、たかやなは、「合意ですか?」と聞いた。

 無駄な言葉は発している暇はない。だから短い時間に考えたのだ。

「合意ですか?」

 そして次の言葉もすぐに出せるように準備していた。合意ならば場所などの指導のみに止めると。教室で行う行為ではない。

 合意でなければ、助ける。それは危険で危ういが、夢中といっても、考える基準は持っているはずだ。殴られても助ける。もちろん、言葉の武器は持っている。教師として倫理の教師として。その武器は訓練されたものだから、切っ先は鋭い。

 

 もちろん、いち子に考えたはずだ。

「合意であるか」の質問のイエスノーだけでなく、はっきりと自分の意思を明示するや否や。その語彙はきっぱりと、か、曖昧か。恐怖に勝つつもりなにか、自分に区切りをつけるのか。意思の表現は言葉以上に、発音や抑揚、発する感情の吐露もある。短い時間だが、考えたはずだ。もういやだ、と思ったら、曖昧はありえない。ありえないと思った瞬間やることはひとつだ。

 

 ドラマ最終回のいち子。ラインのグループを抜けてどうにもしないといい、たかやなに告白する。また、よく一緒にいた谷口恭一が卒業してから思い切っていち子に電話するタップの逡巡と思い切り。すべて、考えた末のことだ。

 

 それが、次の人生につながる。

 老若男女関係ない。相手にも伝わり、これからを生きる誰かの範になることもあれば反面教師になることも。また、過去が自分の人生を充足させることも、消えない汚点となることもあるだろう。だが、そのとき考えることは、未来の利のためではない。だがつながっていることは知るべきだ。知って、考えるべきだ。

 

 何かの本で読んだ。

 女性の参政権がなかった時代がある。だが今は当然のようにある。それは誰かが声をあげ誰かが動き、誰かが達成した。決して変わらないことはいつか変わる場合もある。

 

 誰かが何かを考えた。

 それはつながる。だがそのために生きなくても恐れなくてもいい。私たちはそのとき、考えることを続ければいいだけだと思う。

 

 

 

 

 

『エクソダス 神と王』〜将軍から良き夫。人生には割合がある

エクソダス:神と王 [AmazonDVDコレクション]

 

 難しい映画だと思う。

 いろいろな違和感が頭をよぎる。専門的な部分はどうなのかという指摘があるだろうし、それは至極当然のことだとも思う。自分の生まれ育った国、宗教、慣習などを正確に捉えてない作品はあるものだし、時に、日本とは言い難い日本も何度か観ている。だから歴史、宗教、国家、人種とさまざまな意味で難しい映画だと思った。

 

 だが、興味深い。

 将軍で王と兄弟のように育った男なのである。おそらく20年ほどは、そうだっただろう。母は王族だった。そのときのモーゼは、血はつながっていない母に愛され、血のつながった姉に素性は隠されたままで見守られていた。部下にも慕われていた。何不自由ない 20年。そのあと、エジプトを追放され、一人で過酷に生き抜いた時間がある。時間は把握できないが、1年としよう。孤独な1年。刺客の物資を奪い、なんとか食いつなぎ得たのは、小さな村での羊飼としての暮らし、美しい妻と子供との暮らし。愛情がある家族の暮らし。彼がエジプトに戻る決心をするまで9年とテロップが出た。

 彼がエジプトに戻り、出エジプト記に到る道のりが何年かはわからない。だが、歴史で知られるモーゼは、ここから。家族を捨てエジプトに戻って、王と交渉しながら、神が数多くの災いとエジプトにもたらし得た自由を最後まで守り抜き、海を渡った有名な話に至るまで、石板に十戒を刻むまで、彼は、将軍だったのである。王の兄弟で、王族の息子だったのである。

 そして、一人でサバイバルを生き抜いた孤独を知る男、そして、家族を持つ父。

 生まれて死ぬまでの人生、誰もが子供であり、少年少女であり、青年壮年、そして歳を経ていく。途中で人生を終わる場合もある。だが巻き戻せば、何年かは恋をしていたかもしれない。何年かは一生隠したい秘密を抱えていたかもしれない。

 だから興味深いのである。モーゼの愛した女性は彼を受け入れるに足るたくましさがあり、子供は父の思い出をしっかり覚えていた。歴史に刻まれたモーゼとは違う姿があるのはごく当たり前のことなのだ。

 

お描き徒然

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久しぶりのお描き。やりたいことを終えて、客観的に見るためアップしてみる。後ろのバックは、キャラクターの設定をイメージするためにフリー素材を入れた。トリミングにはこだわる。ピンクのペットちゃんは、「ピチ丸」と名付けられている(名付け親は私ではない)。自分のオリジナルを出すために、布地に拘った。こだわる部分こそオリジナルになると改めて思う。描き慣れない目や肌の表現を試す。不慣れさがとれてきたらいいのだが。

オーディションには応援する機能がついていた〜NiZi Project 感想文

Make you happy

 

 熱量のあるオーディション番組を見るのは楽しい。

 誰もが名前を知るアーティストを輩出したオーディション番組を何度か観たことがある。必ず受かるだろう、と思う人材が、最後まで全力を出し切る姿と同時に、誰が受かるか、どいう興味もある。受かってほしいと願いながら見ることもあるし、受かってうれしい、受からなくて切ないという感情も湧く。

 だが、オーディション番組は、もはや「合格するか」というだけではなくなってきた。

 J.Y.Park氏が地方三次予選から臨席し、番組は始まる。最初に審査の基準がしっかり語られる。歌やダンスに人柄、スター性。地方予選で選ばれた少女たちの首に、J.Y.Park氏自らが首に四角形に対角線の枠がついたペンダントがかけられ、各基準に合わせてキューブが嵌められる。そんな番組的演出は、審査基準のみ継続しているが、実は少しづつ薄れていく。地方から、東京合宿、韓国合宿へ進む度に人数が減っていくが、その基準は順位である。

 人数が減る度に、観る側には応援する準備が整っていく。地方予選で取り上げられた少女たちは、間違いなく、東京、韓国へ進む人材だ。がんばっている姿と、どんどん垢抜けていく姿を観ることになる。歌やダンス、ラップそれぞれの欠点が修正され、観る側に、何かを届ける姿勢が育まれていく。プロの成長よりも、デビュー前の彼女たちの成長は著しく、そのスピードが魅力となっていく。

 オーディションから「推し」が生まれる機能がもはや組み込まれているのだ。

 そして、デビューと同時に「推し」をもっと輝かせたいという気持ちが、購入につながる。オーディションの中に、一定の成功のラインまでプランになっているのだ。

 ただ、その「あざとさ」は非難するものでは、決してない。オーディション後に、観る側はさらに熱量を長くもって、アーティストを応援できるのである。「推し」を持つことは、間違いなく、楽しいことなのだ。ビジネスと言ってしまえば、そこまで。だが、ワクワクする気持ちが人生に生まれるなら、限度を超えない限りは正しいお金の使い方の範囲内に入る。

 

 韓国での合宿でたびたび行われるミッションと呼ばれる舞台は、細かいところまで考えられた衣装、照明、音響などの中で作りあげられていた。オーディションとして、華やかな舞台の中での彼女たちを観るためのものではあるが、総合的なエンターテイメント力が、J.Y.Park氏が率いるJYPエンターテイメントの力の高さを見せつけられる。

 私たちが安心して「応援」できるものが当然のように出来上がっていく。

 最後に、TOPで合格したマコに対して、J.Y.Park氏が言った言葉を記しておきたい。歌やダンスだけでなく、人柄の評価も高い彼女に対し彼は、「成功しても今の姿勢を忘れない人だと思う」と言っていた。共にデビューを目指す練習生への優しいまなざし、丁寧な受けごたえを終始続けていた。彼女がいるチームのチームワークへの評価も高かった。いわば、謙虚ともいえる姿勢である。このイメージが続く限り、観る側はより長く応援できるようになると思う。

「それでも夜は明ける」〜痛みと理不尽の世界に未来はない

それでも夜は明ける [DVD]

 

 1861年から1865年にかけてアメリカで起こった南北戦争。それ以前、1841年にワシントンD.C.で誘拐され奴隷として売られたソロモン・ノーサップの体験記がベース。

 

 「PLAN B」の名前がオープニングにあったことから、ブラット・ピットが所有する映画制作会社が作品に関わっていることを心に留めてみることにした。最初は社会性のある佳作の印象だったが、今や信頼できる作品に関わることが多いと言われている。彼がどれだけプロデューサー業に関わっているかを知る術は私にはないが、2011年の「マネーボール」とういう作品以降、ずっと気になっていた。

 

 冒頭のソロモンの家族の団欒、ご近所との穏やかなやりとりから一転、両手両足を鎖でつながれることになる。物凄い戸惑い。当たり前だ。バイオリンでお金を稼げるアーティストとして生活してきたのだ。簡単に受け入れられるはずもない。

 日本でもたくさんの人が「家」に住んでいる。借家でも持ち家でも。ソロモンもそうだった。だが、奴隷として売られたソロモンは、掘建て小屋で暮らし、粗末な食事で労働を強要され、一方的にムチ打たれる。逃げようとしたこともあるが、その途中、見つかって首に縄をかけられ殺された黒人を目の当たりにする。彼はソロモンではあるが、プラットと呼ばれていた。彼はソロモンならば殺されなかったが、プラットである限り、同じように簡単に殺されることを知る。

 何度もムチで打たれる場面があり、奴隷として働く者たちの背中はとても痛々しい。心も枯れ果てて虚な目もまた、観る側の痛みになる。彼らを積極的に助ける側に立つ登場人物はいない。願うがいない。

 プラットは何人かに希望を託し、自分が黒人を奴隷として労働させない地で生活していることを証明しようとするが、なかなかうまくいかない。やがて出会う、自由な考え方を持つ、家づくりの職人が密かに動くことで、プラットはソロモンに戻り、12年ぶりに家族と再会する。

 この映画は奴隷たちの痛みを和らげる人物がいない。代わりに、この歴史に刻まれた暗黒の制度に利した者に、必ず報いがあることを明確に表している。晩年のソロモンの活動でも、白人を罪に問えなかった部分もあり、また、現在においても、完全に問題が解決したとは言い難い。だが、人を攫い、売り飛ばし、所有することを「是」とする世界に、未来はないのである。

 

 

 

コロナ禍の道すがら 〜現在地からマスクのある風景を眺めみる

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 スーパーのレジの近くで、5枚198円のマスクが売られていた。メイドインチャイナ、「日本マスク工業会」のマークはない。デザインの少ない包装で、マスクの中身がよくわかる。どノーマルな「プリーツ型」。ちなみに、プリーツとは、洋服の折ひだのことで、衣服に立体感をつけるためにつけられたもの。もうひとつ有名なのは、「立体型」。防塵マスクのような形である。

 ただマスクのことだけで、知識がいっぱい増えた。。

 不織布マスクとガーゼマスク。ガーゼマスクは給食用のマスクという名前で売っていたのを見かけた。ようするに布マスク。我が家にも国から三密を避けるチラシと一緒に届いた。不織布マスクの不織布は、ふしょくふ、と読む。案外歴史があって、1920年代、ドイツのフェルト業者が毛くずなどを接着剤で固めたものだそうだ。通気性、ろ過性、保温性などの基本特性があるということらしい。

 不織布をマスクにする発想はどこからはは見つからなかったが、2001年、医療向けだった使い捨て不織布製を一般向けに販売したのが玉川衛材とのこと。「7DAYマスク」は花粉症のときによくお世話になった。他より少し価格が安く、耳が痛くなく、息がしやすい記憶がある。

 

 コロナ禍の中、スーパーに入るのも、マスク装着推奨。花粉症だから、風邪気味だからという以前の問題で、毎日持ち歩く。値段高騰の時期はひと段落だが、以前の価格にはならず、さりとて、つけ心地が良いものを、通気性のいいものをとも思う。

 最近買うマスクの販売元をみてると、知らない会社が多い。知名度は「7DAYマスク」の玉川衛材もなかったと思うが、長い歴史と、専門の会社としての製品だったように思う。マスクの必須度が格段に上がった現在、多くの会社による発売はありがたいが、マスクひとつとっても、ものづくりとして丁寧に積み上げてきた会社があるのだろうということも、考えておきたくなる。

 商品は飽和するとデザインが豊富になるという。だがまだ、それ以前。性能の良い製品や、業種にあったもの、用途にあったものなどたくさん出るだろう。また、必須だからこそ、普及しやすい価格帯のものも期待したい。

 新型コロナウイルスについては、ワクチンもなく、対応する社会システムもない、まだ道すがらだ。いつかインフルエンザのように、数日休むことで、仕事に復帰できるような距離感も(それがうまく機能しているかは別として)ない。

 だが、マスクのある風景は、コロナ禍以前とはまったく別次元になっていると思う。