水がある限り金魚は泳ぐ

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『ここは今から倫理です』〜人間は考える葦である

ここは今から倫理です。 コミック 1-5巻セット

 

  たくさん言いたいけれど全部この一言に集約できる。

 「人間は考える葦である」

人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。
だが、それは考える葦である。

彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。
蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。
だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。
なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。
宇宙は何も知らない。

だからわれわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。
われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、
われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。
だから、よく考えることを努めよう。
ここに道徳の原理がある。

 学生のときに授業で習ったうろ覚えの言葉。習った内容以上のことは覚えていない。だが倫理は、この言葉の意味を自分なりに考えてもいいのではないかと自然に思っている。暗記して点数はとれるけれども、社会人になってからの学問は暗記ではない。

 

 相沢いち子に「合意ですか?」と聞く高柳先生は、この物語は代表するシーンであると思う。原作での巧妙な構成や、授業のシーンでも考えるところがあるが、ドラマを見て、改めてこのシーンに多くが詰まっていると思った。

 まず、高柳自身が何をいうべきか考えている。確かめるべきことは何か。恋愛がセックスと関連していることを彼は否定したくないと思っている。だが犯罪につながることは忌避したい、なんとしても。それは確かめるために一番必要な言葉を端的に言わなければならない場面で、たかやなは、「合意ですか?」と聞いた。

 無駄な言葉は発している暇はない。だから短い時間に考えたのだ。

「合意ですか?」

 そして次の言葉もすぐに出せるように準備していた。合意ならば場所などの指導のみに止めると。教室で行う行為ではない。

 合意でなければ、助ける。それは危険で危ういが、夢中といっても、考える基準は持っているはずだ。殴られても助ける。もちろん、言葉の武器は持っている。教師として倫理の教師として。その武器は訓練されたものだから、切っ先は鋭い。

 

 もちろん、いち子に考えたはずだ。

「合意であるか」の質問のイエスノーだけでなく、はっきりと自分の意思を明示するや否や。その語彙はきっぱりと、か、曖昧か。恐怖に勝つつもりなにか、自分に区切りをつけるのか。意思の表現は言葉以上に、発音や抑揚、発する感情の吐露もある。短い時間だが、考えたはずだ。もういやだ、と思ったら、曖昧はありえない。ありえないと思った瞬間やることはひとつだ。

 

 ドラマ最終回のいち子。ラインのグループを抜けてどうにもしないといい、たかやなに告白する。また、よく一緒にいた谷口恭一が卒業してから思い切っていち子に電話するタップの逡巡と思い切り。すべて、考えた末のことだ。

 

 それが、次の人生につながる。

 老若男女関係ない。相手にも伝わり、これからを生きる誰かの範になることもあれば反面教師になることも。また、過去が自分の人生を充足させることも、消えない汚点となることもあるだろう。だが、そのとき考えることは、未来の利のためではない。だがつながっていることは知るべきだ。知って、考えるべきだ。

 

 何かの本で読んだ。

 女性の参政権がなかった時代がある。だが今は当然のようにある。それは誰かが声をあげ誰かが動き、誰かが達成した。決して変わらないことはいつか変わる場合もある。

 

 誰かが何かを考えた。

 それはつながる。だがそのために生きなくても恐れなくてもいい。私たちはそのとき、考えることを続ければいいだけだと思う。