水がある限り金魚は泳ぐ

本と読書と映画とドラマ、そして雑文。

感染症専門家の話がメディアから消える日

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 どのニュース番組でも、ニュースに応じて専門家が登場する。だが、2020年、ここまで感染症に関連した専門家の方々のお顔を拝見したことがあっただろうか。

 

 何人かの専門家の先生については、顔を名前が一致していたりする。毎日のようにお顔を拝見する方もいる。未知のウイルスが世界中で蔓延している中、新しい生活様式と、日々変わる情報があり、専門家の発信もまた、私たちの命を守ってくれている部分がある。

 

 この先、医療関係者が通常の業務を主にされる状態になることを安心と感じる区切りのひとつだとは思ってはいるが、加えて、感染症の専門家がメディアで発信するのではなく、本来の医療や研究、教育などで時間を費やされるようになったときに、私たちはやっと、一息つけるのではないか、と思たりする。

 

 

「こんな感じ」という正解探し〜スケッチワークから

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 私の描いたスケッチがクライアントの一番偉い人までいって、OKもらったっていうお知らせがきた。対抗馬として、完成品のイラストが突如用意され、プレゼンのようなことになったらしく、なんとか乗り切り、採用になったということらしい。

 

 デザインもそうだけど、必要な分を必要に応じて割り付けるという側面の他に、「こんな感じ」というあやふやだが、正解のある部分がある。それは打ち合わせだと、顔色や言葉使いで情報をゲットできたりするが、新型コロナウイルスのこともあり、あまり人に会えない。それ以上に、担当者が変わるにつれ、電話やメール重視で、得ることができなくなってきた。

 クライアントは有名な方なので、どういう考えか推測する手がかりはある。しかも、かなり昔、お会いしたこともある。

 

 「こんな感じ」とは不思議な概念だ。スケッチをしているときに、「こんな感じ」であれば、相手の心が動きやすいと自分で納得できるときがある。指示されたスペースに効率よく美しく或いはカッコよく体裁を整えるのは技術の部分も大きいが、「こんな感じ」というオーダーを満たすためにどうしたら良いかには、具体性がない。だが、採用やOKサインという正解は必ずあるのである。

 自分の納得があれば、正解になることは多いが必ずでもない。

 だがその正解に向かい、あれやこれやと思いをめぐらす。

 

 スケッチだから、まだ完成品ではない。だから今欲しいのは、なぜOKだったか、だ。しょうがない、ということからか、消去法だったからか。または、決めないと前に進めないからと暫定的にか?後ろ向きの理由を考慮しつつ、気に入ってもらえた部分があれば、情報がほしい。

 「こんな感じ」にたどり着くのにはノウハウはない。具体性もない。だが、正解はあるのだ。クライアントはそれを見て、「そう、こんな感じ」という顔をされるのを私は何度も見たことがある。これは、仕事においては、幸せな瞬間といえるものでもある。

 

今週のお題「外のことがわからない」

書きにくい、やりにくい

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 専門家ではないので書けないなと思うことがある。たいした影響力もないが、読んでもらうことを意識すると読む人の立場になれば書けないと考えることも。または言葉を選んで、相手を慮って、うまく話がつながらなくなる、のでは、ないか?と自問自答することある。

 ときどき思い出すのは、映画の「銀魂」で、パロディを使い倒して、あやまり倒しているというエピソードである。または、またあそこか?と笑って許される場合もあるという。かといって、やりたい放題はよくない。著作物に対する敬意は、自分が逆の立場になればわかる。でも、あやまって許されるのか?と思うと人間っていいもんだ、と思えたりする。

 最近、MMT(Modern Monetary Theory:現代貨幣理論)ムーンショットってのに興味をもってネットの記事を読んだが、ブログでまとめようとして止まってしまった。ムーンショットは、アバター10人の話になるときっと夢物語になる。Googleが採用しているという話だと、ちと、有用な情報に思える。個人的には、部活動ができて1年目の野球部が甲子園で優勝を目指すという目標を持つことに近いと思う。化石燃料がないとまだまだ成り立たない生活なので、自分の身近な生活で地球を壊していると分かっていても・・・というものはある。知らず知らずわかっていても、棚にあげるのだ。

MMTについては長所短所って感じで受け取ったがホントにどんな言葉つかったらよいかわからない)

 棚上げ案件は正直つつかないで〜と赤面し、勉強不足、認識不足で、書かない、書きにくい、書けないという選択肢はとってもいいとは思う。だが、書けない世の中にしてはいけないのだ。やりにくいこともあるが、何が引き金で不十分な文章になろうが、自分の意見を発信できないからと押し込めることが、ごく普通になってはいけない。もちろん、敬意を気遣い、思いやり、優しさは失ってはいけないと思う。

 

 

ムーンショット型研究開発制度

 

 

 

「ゴールデンスランバー」〜逃走劇とギリギリのライン

ゴールデンスランバー [DVD] 

 

 事の始まりは、ギリギリのところで踏みとどまった友人の死。そのとき、画面は逃走劇が最高に面白くなるカメラワークになる。テープが切れた、ファンファーレがなった、主人公の人生が切り替わる、瞬間。位置がわかる、爆破がわかる、敵がわかる、組織が見える。ぐいぐいと引っ張っていく、先の見えない人生のスタート。配送業を生業にしようと仲間と生きていく道から思いっきりそれる。急転直下。

 人気のアイドルを助けたお人好しの青年は、彼を知る人なら誰もがありえないと思う大統領候補殺害の犯人にされる。そして用意された人生は、犯人として命を落とすこと。それで幕引きがされれば、とある陰謀の隠蓑となる。

 

 逃走劇の中で走り続ける彼は、望んだ道にから離れて、陰謀の成立のために用意された最悪のシナリオからも離れて、その間を縫うように生き延びようとする。バンドをしていた仲間との青春が絡み、挟み込まれる。

 あの子はやっていない、と。逃げろと、生き延びよ、と。

 彼が色濃く引き継いだであろう気質が、マスコミに囲まれて父によって表現される。間隙を縫い、ギリギリを走っていた彼は、その父のおかげで踏みとどまり、絶壁の崖も落ちずにいた。政府の組織にいた協力者の男性は、また別の道を彼に提示する。生き残る道を。

 何度も、彼の逃走劇のスタートをつげた友人の死が思い起こされる。青春を思い出させる曲、命令されたように友人を犯人に仕立てて殺すはずが、最後まで友人である道を選び、自らを犠牲にした。

 

 ギリギリのラインがある。

 選択肢のどちらを選ぶかに正義も悪もへったくれもない。どんななマスコミの報道も組織の発表も信じられないかつてのバンド仲間は彼を信じていた。

 逃走の途中で、父が息子の無実を信じる封土をみて、食事を提供していた女性が、通報をしようとする客の男をとめて、見て見ぬフリをしようとした。彼が助けたアイドルは、いつか恩返しをすることしか考えてなかった。

 ギリギリを走っていて、倒れそうになったとき、落ちない持ち手、足を置く場所、脱水を防ぐわずかな水、生きる糧が現れることがある。ご都合主義に現れるとは限らないが、まったく、現れないとは限らない。

 生き延びるというある意味、正解とも言える人生の道から体を翻し、友人たちの元へ戻ることを決めた主人公の潔い選択。逃走劇のさなか、生き残り、自分らしく生きる道を彼は選んだ。ギリギリのラインで。

 ゴールデンスランバー。それぞれの時間。胸にある自分らしさが道を選ぶのだ。

「グッド・ドクター」〜信じる方法が詰まった作品

グッド・ドクター DVD-BOX 2

 

 2013年に韓国で放送された作品である。2012年、日本でも中居正広主演で「ATARU 」が放送されている。医療と事件解決、方向性は違うが主人公の設定がサヴァン症候群である。チュウォンと中居正広、二人の仕草の中に役作りに対する真摯な姿勢が伺える。目の動き、手の動き、歩き方、話し方、と演技という点でつくりこんでいることが、比べることでより一層わかる気がした。日本でもアメリカでも魅力的な俳優主演による、同作のリメイク版がでていて、比べるとしたら同作品同志での方が順当だろうが、物語の前半は、チュウォンと中居正広という比べ方をずっとしていて、それがこの作品の引力になっていた。

 もうひとつ、「最上の命医」という斉藤工主演の作品が浮かんでいた。それは「グッド・ドクター」も小児外科が舞台だったからである。体の小さな子供の手術が大人と違う側面を持つことがこの作品を見る下地になっていた。

 

 医療ドラマとして、多くの医療用語が飛び交い、手術シーンも多い。レジデント1年目の勤務体制や、病院内の勢力争い、経営問題等の現実味のあるエピソードの中に、幾つかの恋愛も描かれ、医療ドラマであること忘れさせてくれるほどほのぼのとしていることもある。また、主人公と教授である医師には兄弟を亡くした過去があり、ヒロインであるフェローの医師は、緊急の手術でやむなく執刀し術中死を経験するエピソードがある。また、患者役の子供たちの演技の凄さに韓国ドラマの層の厚さを感じ、ドラマそのものを楽しんで視聴しながら、終盤が見えてきた頃に、幾つかのエピソードがこのドラマの核だと思えてきた。

 

 1つには、兄を死なせた事故の原因をつくった幼なじみを信じ方を主人公が教授である医師に聞いたときの答えは、「簡単」で「今どうやって生きているか」を見ることだった。

 2つめは、問題のあった小児外科の科長の医師を主人公が尊敬した理由。「手術をいっぱいしてきた手」を持っていたから。

 最後に、それはタイトルである、良い医師の条件。クリアしなければならないのではなく、良い医師になろうと日夜悩み考えている医師こそ、良い医師だということ。

 

 考えるだけなら、誰でもできる。「考えている」と口にすることも、綺麗な言葉でごまかずこともできる。だが、手術をいっぱいしてきた手と同じような積み重ねないと見えないものは、上っ面だけの生き方には現れない。いつのまにか悩み考えてきたことはその人の身についている。

 

 見える人には見えるのだ。 

 正解があれば、人生はたやすい。だがどこにもないから、次の選択は向き合うかどうか。向き合わなければ問題は起きず、向き合えば問題は起きる。そのどちらを選ぶべきかは、現実で誰もが体験する。

 

 直感で主人公を受け入れた男性のいかつい看護師と、感染症に苦しむ学生の女の子。徐々に受け入れる同僚、わかっていても弟を思い、最初は向き合わなかった教授の医師。最初は怖がる子供、信頼できない親は時間がたてば変わっていった人もいる。世話焼きのヒロインは、最初は放っておけず弟として面倒を見るが、彼女の才は、正面から、時には正面すぎる方法論で向き合えることだから、主人公を男性として受け入れたらとまどいは何もなかった。

 見るべきものに気づけば、人を信じるのは簡単。自分に見てもらえるものがあれば、信じてもらうのは簡単。時間はかかることがあるかもし見れないが、ふと見えたり、ふと伝わったりする。手術をいっぱいしてきた科長の手がみえずに、賄賂をもらい、事なかれ主義の側面だけをみていれば、生まれなかった絆もある。

 たくさんの登場人物がいる。誰かに自分を重ねることもできる作品。それほど、信じる方法がたくさん詰まっている。

「ぼくらの」 〜勇気にかえるための、濃縮された生命の歴史

テレビアニメ『ぼくらの』DVD Vol.1

 

 まだ幼い子供たちが、戦うたびに散っていく、毎回毎回の辛く切ない物語は、何もかも解決した最終回につながっていく。

 理由もわからず、アニメのヒーローのように戦い散っていった最初の子供から、葛藤して戦い葛藤しながら逃げ出し、諦観し、意義を見つけ、生きたことに何かを残そうとする子供たち。濃縮された子供たちの命が煌めき、散っていく。

 戦いと、生と死と。

 彼らが子供であるから、毎回の物語は辛く切ない。

 だが、人類の歴史は地球の歴史の中では短く、人間の寿命よりも短い動物たちの命もある。吸血鬼の物語をみれば、ときどき見た目が同じでも遥かに年上であるというエピソードがはさまれる。子供であるということは、物語の目くらませ、見るべきは、生命の歴史なのである。

 愛と友情と、憎しみと怯えと、苦しみ、悲しみ。

 

 とある戦いは、別の星で。同じ条件をつきつけられて、突然現れたロボットと戦うのは、同じく、買っても負けても散る定めの子供が操縦するロボット。負ければ、星ごとなくなるという条件も同じ。

 生き残ることは、さまざまな偶然の積み重なり。

 

 

 ジアーズ。最後の子供は、自分の死のあとも続く未来を見据えていた。

賢く、ひっとびに大人になった少年は、諦めずそして、相手に敬意を払い戦っていた。

 

 最終回は生き残った星のはじまりの物語。滅びを免れて日々生きている時間は、誰かの生命の歴史の途上にいる。

 小さな子供へ伝えられるのは、兄が命がけで戦った物語。その物語が伝えられたことで、いつのまにかいなくなった兄が、彼らが生きるための勇気に変わる。

 ぼくらの。

 子供のものがたりではない。わたしたちのものがたりでもある。

 

「ALONE アローン」〜手探りでどうやって生きるのか。

ALONE [DVD]

 

一面の砂砂砂。

地雷が埋まっているのはわかっていても、

どこに埋まっているかはわからない。

先を後ろ向きに歩いていた相棒は、足を吹きとばされた。のちに彼は死んで、ひとりぼっちになった兵士は、片足を、固定したまま動けなくなっていた。カシャ。地雷を踏んだ音。体重を預けている限りは吹っ飛ばないが、歩き出せば吹っ飛ぶ。

 

いや、かもしれない、だ。

空き缶を使った手作りの地雷は、必ずしも爆発するとは限らないということを兵士は知っている。生死を奪う条件は、地雷だけではなく、砂嵐、温度差、狼、飢え、脱水。それと、敵。生き残るには過酷な条件だが、命とは、奇跡のように条件が燃える灯火。兵士が学んだ生き残る方法でも、アメリカは誰も見殺しにしない、という言葉ではなく、砂嵐を見つけ、姿勢を低くし、可能な限り体を固定させ耐えたから生き残ることができた。だが、そうやったから生き残ったわけではない。砂嵐を見つけて呆然をたちつくていたら、巻き込まれて、吹き飛ばされたかもしれないが、万全の準備をしても生き残れたとは限らない。

 

誰かを何かを頼るという方法がなくなった世界では、地雷を踏んだ足をどうするか、という命題は、自分が自分できめて行動するということにつながる。

立ち止まるのか、進むのか。

やがて、立ち止まっていることは猶予と気付き、踏み出さないといけなくなる。

いつ、どこで、どんな風にと、決めないといけなくなる。

 

砂漠で地雷を踏んだ兵士は、誰もたよれない状況になったときの自分に重ねられる。正しいとか正しくないとか、そんな物差しではない、決断する前に正解を教えてもらえないから、常に、頭に不正解のブザーが聞こえている。相棒だった兵士のように足を吹き飛ばされ、生きる力がなくなってしまう可能性も。

助けはない。ヒントもない。手がかりもない。

自分で何かを決めるのは、本当に手探り。責任も自分で。

イムリミットはない。時間もない。

砂嵐、温度差、狼、飢え、脱水。それと、敵。地雷とは違う危険もある。

 

手探りだ。自分で、前に進むのは手探り。放棄することも可能。ジエンドへの逃走か、もがくのか、もがいた先のトンネルの果てを夢見るのか。

 

兵士はベルベル人の男と会話しながら、踏み出すことを決めた。その結果は映画でも語られるが、結果よりもこの映画は、ひとりで手探りでどうやって生きるのかの思考サンプルであることの方が、大きい。避けて通れない決めなければならないこと。大袈裟ではないのだ。人ごとでもない。