水がある限り金魚は泳ぐ

本と読書と映画とドラマ、そして雑文。

オペレーションクロマイト〜成功という結果に含まれる負の空席に座る男たちの戦争〜

オペレーション・クロマイト(吹替版)

 

 ハリウッド映画以外の映画をみるのは、世界を広げる作業だと思う。私は朝鮮戦争を語れるほど詳しくないし、感情移入ができるわけでもない。名優リーアムニーソンが立っているだけで語るその存在感を楽しむことくらいできる映画ファンで、マッカーサーを知っているわけではないのに、マッカーサーに見えないけど、当時の将軍の人生を切り取っているのは十分わかる、その凄さにも拍手を送る。

 だがそれ以前に、この映画が語るのは、「戦争」という二文字には、死が確実に存在しているいうことだ。失敗はもちろんのこと、成功にも苦労はある、苦痛がある、それは犠牲という言葉で片付けられない、綺麗事じゃない、泥水飲むような、地べたに這いつくばり、挙句の果ては命を削ることになる「一部分」が含まれていると言っていい。

 それを負の側面というシンプルな言い方をすれば、 マッカーサーと語る任務に志願したチャン・ハクスの清清しい笑顔は、自分が成功すると信じてやまない犠牲を負う側だと信じてやまないように思う。大艦隊で攻撃を仕掛けるのはマッカーサーなのだ。空席は命がけの任務のみである。

 

 実話を基にしたストーリー。アクションも多い。戦闘シーンも苛烈。人民裁判としての銃殺も、ギリギリまで描写する。映画として、娘さん、お母さん、妻を演じた女優陣が清涼剤。ドライバー席で勝気に活動し、銃撃戦で命を落とす男装の女優もかっこいい。逆に男優の見分けがつかないのは、私が観る側として拙いせいか。なんとなく見分けがつく頃に、映画はクライマックス。切ない。

 

 美化してはいけない。そして時にはハリウッド映画ではない映画を楽しみながらも思考し、喜怒哀楽を実感することで、世界をもっと広げられたらいいなと思う。知らないものに出会うことで、大切なものを見つける可能性は広がると思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「M-1グランプリ2018」〜あれれという違和感の中で起こった地殻変動と愛おしい時間〜

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 あれれ、なんだかお客さんが重いような・・。数年ぶりに最初から見始めた「M-1グランプリ2018」。今田さんと上戸さんが登場してから気づいて、見取り図さんの漫才が始まってからは確信になった。会場が重い。ついさっきまで、くまだまさしさんが前説やっていたとは思えないみたいなことを今田さんがワザワザ言ってしまっているのも気になった。M-1のお客さんって、もっと暖かかったはず、それも拾って笑うのか、と思うほど過激に暖かかった印象さえある。
 審査員は緊張しているが、笑いにつなげるのも忘れてない。オール巨人さんが緊張について語っている。審査員のメンバーには違和感なかったが、何故か、席順が気になった。サンド富澤さんと、中川家の礼二さん、入れ替え、みたいな。富澤さんご本人も席順について語っているのも当然に思えた(上沼さん、松本さんの横、という意味だが)。実はその入れ替えについては、最終決戦でコンビ名の名前が並んだ時の落胆につながっていた。早めに理由を書くべきところだから書くと、霜降り明星さんが、圧勝しているかの印象を与え、早々に結果を出してしまったということだ。
 普通に見てたら気にならないけど、第一回から数年間は年末の楽しみとして欠かさず観て、腹を抱えて笑っていた感触があるから、拭えない違和感があった。

 演者の実力や緊張の有無とは違う次元で、会場は重かった。何か事故でもあった?でも、この番組を支える人たちはそんじょそこらの事故なら、フォローしきるはずだ。それに、最後の3組に残るコンビがきたら、会場の重さを爆笑に変えるに違いなかった。空気を変えるだけの熱量もこの番組ならではの醍醐味、楽しいにしようと思って見続ける。

 結局私は最後まで会場は重かったと思ってる。だからこそ、スーマラ田中さんのテッテレーが引き立った。実は松本人志さんのコメントがどのネタよりも面白いと感じてもいた。センスと間合い、適度なゆるみ。ギャロップさんをいじっている感じが、そう爆発力のある言葉じゃないのに、なんだか面白いのだ。トロフィーを観て、霜降りさんみたいという気づきを絶妙のタイミングで言ったのも。最後に泣きそうになったお人柄さえ、広い意味で面白い。

 というのも、違和感だと思う。
 松本さんと出場者と比べる暇がある見方なんてダメだ。

 漫才の頂上決戦じゃないじゃないか。
 お客さんいれてる会場があんなに重いからくる、へんな違和感がずっとある。

 逆に敗者復活の会場の方が、暖かかったと思うほどだ。話はそれるが、だからこそ、プラスマイナスさんとミキさんに投票が集中した。アキナさんの投票数でロコツな歓声があった。あそこの方が、演じる側もお客さんも出来上がっている。つまりは、決勝進出チケットをかけた戦いの場になったいたといえるのだ。二組が残ったとき、お笑いに純粋ばアホと、たくさんの人に愛される存在の力がきちんと評価され、今回は、後者が勝ったのだ。プラスマイナスさん、決勝でも観たかったが、兄弟ネタをしゃべくりでみせてくれたミキさんも本当楽しかったので、結果も丸く収まっていると思うのだ。

 そんな中で今回のM-1は、「この日一番おもしろいこと」という判断基準が揺らいだ大会であった気もしている。
 ひとつは、ミキさんが出てきたときに思った漫才以外の「魅力」。プラスマイナスさん推しの方さえ言うほど、彼らの漫才は忙しいのにしっかり仕上げていたし、見た目だけじゃない部分も大きいにも関わらず武器になっていた。同じようにトムブラウンさんは、爪痕残した以上に、ニコニコと笑ってくれていたし、チャンピオンの霜降りさんのせいやさんは可愛らしい。和牛さん、二人ならんでゾンビになっているところなんて、その姿で笑える。
 もひとつ。M-1向けのネタ、というのにこだわらないコンビが「なんとなく」増えてきている。逆に、自分たちの漫才がM-1でどれだけ笑いをとれるのかを試しているところもある。サンドさんやナイツさんはかつて、4分の中でどれだけネタを突っ込むかと思えるものをみせてくれて、それはそれでどれも面白く十分な笑いだったが、自分たちのペースを貫きとおした笑い飯さんとは違うものだった。
 最初に「魅力」という言葉をあげたが、自分たちの漫才を見せる「個性」をぶつけてくる漫才が増えたと感じた。それはとても喜ばしいことだ。じゃれあう遊びのような漫才を繰り広げたジャルジャルさんが最たるものだろう。逆に4分を意識した漫才で育ったのは、霜降りさんの方だなとさえ思った。
 この地殻変動は私にとってとても楽しいことだった。優勝しなくても売れたコンビはいっぱいいる。だからこの番組は広がればいいのだ。広がることで漫才はもっと面白くなる。ああ、楽しみだと。
 ほんとうに、楽しい時間だった。寧ろいとおしささえ覚える。みんなおめでとう、といいたいほどに。

 最後にどうしても記しておきたいことがある。最終決戦で残った3組について。
 「もしもう1回観るとしたら、どの組?」
 いわば、3回目が観れるならどの組を選ぶ?と問われたら、私は和牛さんかジャルジャルさんの方を観たい。逆に、霜降りさんは、来年でてきた新星や、隠れた猛者や、ミキさんあたりと、M-1、来年争ってほしいと思うのだ。来年も和牛さんは観れるなあ、と思うのは楽しみではあるけれどもね。


(追記)
楽しい時間をすごした2018年のM-1。なのに、ミソがついている。わからないことも多いが笑っては済ませられないことなので残念で仕方がない。

擬態シナリオ

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どうしたら上手くいくかを考えて動くと
歯抜けのようなわだかまりが生まれてた。
上手くいくようにするのと、
満足を味わうのとは違う。
そしてなんとか上手くいかせられても、
疲れが残ることさえある。

 

 

かといって、満足を優先し、
失敗の確率を増やして、
本当に失敗すれば、余計に疲れる。

 

 

顔がヒクヒク。
上手くいかせようと擬態のシナリオを書いてる。
好印象を与える言葉選びと、
ニュアンスと間合いを物語りにしている。
無理をしてるかも、と思うことがあれば、
上手くやったら、余裕が生まれる、
その余裕で好きなことすればいいじゃん、なんて、
自分で自分を言い含めている。

 

 

目頭のあたりが震えてきた。

 

 

それでも上手くいって成功すれば、
一段落の充実感は得られる。
こういうことが続けばきっといつか、
大声で叫んですべてをぶっ潰したいと思うかも。
ただ、また一から立て直すのは面倒だから、
擬態のシナリオを書き続けるしかない。
どうしたら上手くいくか。
それは自分にどのような行動をさせ、
どのようなセリフを話し表現するかによる。
本当の私なんて、今更考えてもいないが、
歯抜けのようなわだかまりは否めない。

 

 

実はまた一から始めるのはそう怖くないのである。
個人的な見解ともいえるが、
一般的にもそうだと、実感できれば、
何事もそう怖くないのである。

 

 

ただし。
地雷は間違いなくある
それは、わかっておきたい。

 

主観に関する私考

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主観というものについて
懐疑的になるのは間違ったことではない。
寧ろ疑うべきだ、果たして自分で考えたかどうか。
ただし手法としてである。
他人の受け売りの部分に気づくことこそ、
いつしか失ってしまった自分を取り戻すチャンスだ。

 

完全な客観性などは存在しないのは
今更考えるべきことではない。
なぜならば主観も誰かの複写であり、
複写したものを組み合わせれば
コラージュという芸術の一種になるのである。
唯一無二でないものも、
関係性によって唯一無二になりえることを
忘れてはいけない。

 

迷って悩んで不安になって、
人間は生きている。
それが主観であるかどうか、
疑ってみた結果、誰かの二番煎じと気づくのは、
方向転換をするのに良い機会である。
何をやっても結局一緒じゃないかと
成功した者たちを羨むのも、
他人や環境のせいだけにするのも、
プロセスとしてはあってもいいのだ。
だが、気づくべきだ。
そこは荒野なのである。
荒れ果てた土地で育まれるものはなく、
応急処置はできても回復はできるはずもない。
ただ、向かう場所から遠ざかるだけである。

 

ここはどこだろう?
荒野ではない

人の歩みの中にいる。
自分の道の上にいる。

出会った人たちの顔顔顔。
身近な誰かの顔顔顔。

別の道もあっただろうに、今いるのはこの道。
この道で生きているこの場所に立つ自分はたった一人。
暖かい場所だとか、恵まれているとか、
環境を描くよりもここにある自分の胸をたたく。
信じて疑って挫折して不安になって、
悩んだけれども、笑顔もところどころにあった。
ここから見る景色にも見えるのは顔顔顔。
立っているその場所は唯一無二。
私もコラージュになっている。
複写してきたのは出会った人たちの何か
複写してきたのは身近な誰かの何か
芸術というにはおこがましいが、
私は私だというしかない。

心臓のあたりを拳でたたいてみるといい。
心臓のあたりを、拳で。

「残穢【ざんえ】 -住んではいけない部屋-」〜ミルカ、ミナイカ ミエナイカ

 

残穢[ざんえ]―住んではいけない部屋― [DVD]

  背中を向いていると聞こえる、掃除をするような音のする部屋。橋本愛演じる久保さんの手紙を雑誌編集者から受け取った竹内結子扮する、作家である私。いつのまにか二人は共に行動するようになり、久保さんが住んでいる部屋での現象は、部屋ではなく、場所に関わるものだと突き止める。

 

 久保さんが聞いた「音」から始まった物語はすぐに、勘の鋭い子供によって「見える」のことが示唆される。 

 作家が取材する手法で、二人の女性は、歴史をさがのぼる。どんな場所も、その人が住む前に、その建物が建つ前に、誰かがいた。当時を知る人の話を聞きながら、連綿と続くのは、タイトルである「残穢」。積もりも積もって膨れ上がったもの。

 

「殺されたもののゆくえ」という民俗学の本をずーと前に読んでいたから、どんな場所にも以前、さまざまな誰かがいたこをと意識することが容易かった。特に、この映画では、主役クラスの竹内結子橋本愛に、後半にでてくる佐々木蔵之介、坂口健太郎といった華やかななキャストとは別に、その場所に住んでいた、過去の人々は市井の情景で、実力があキャストがリアルに演じていた。彼らのまなざし、悲痛な叫び、恨み、虚ろさ、それらは華やかなキャストが時に打ち消すが、ラストに進むにつれ、消えてはいないことがわかってくる。

 

消えるはずはないのだ。

 

綺麗に冒頭のエピソードと、竹内結子の仕事とが結びつく。時に、なごやかに見える竹内結子と編集者、山下容莉枝だが、全部つながっていることにも気づかされる。物語の構造の恐怖をあえて、華やかなキャストが薄めているとは思う。だが、消えているはずはないのだ。

 

ラストシーン。見えている人にはやはり見えていた。だが、見えない人には見えてないのだ。そしてふと、久保さんのいたマンションに住んでいたことのある若い男性が、自殺するときに、新しいマンションの大家さんに、「迷惑をかけることを詫びる」存在としてでてきたことを思い出す。大家さんは見たのは、この物語の核になる恐怖にからめられた男性だが、自殺することで迷惑をかけることを気に病む優しい青年でもある。

 

ミルカ、ミナイカ ミエナイカ

そんなことを考えた。青年を気遣う大家さんは優しさから彼の姿を見た。どんな場所でもたくましく生きるご婦人方には見えず、そして、見えなかったはずが、見ることになる登場人物もいる。特に、あまり心霊現象を信じてないと思っていた主人公私が、取材によって理解をしたことによりまず、ミルマエに「音」からはじまることになる。

 

私はまた、あの本を思い出す。殺されたもののゆくえ。

よく思い出すのは、古来からその場所でいきてきた人々が文明に追われたエピソード。私たちは何も知らず、そんな場所で生きているのだとまた思い知った。

「ウルフ・オブ ウォール・ストリート」〜良いも悪いも人生には結果が伴う。

ウルフ・オブ・ウォールストリート(吹替版)

 

 この作品の大きな特長は3時間あることだと思う。

 ジョーダン・ベルフォードには、セールスという特技がもともとあったんだと思う。それをブラックマンデーとマシューマコノヒー(ブローカーの先輩役・ゲスト出演っぽい)に見事に捻じ曲げられ、一直線に教えに従って生きたように思う。最初の部下、ドニーに麻薬を教えられたのもきっかけ。彼にとって麻薬は、頭を働かせるためのもので、ポパイにとってのほうれん草になっていた。

 フローチャートのように、人生が描かれる。店頭株から、社員教育とイメージ戦略をあてて、ウォール街へ。登りつめてFBIに目をつけられ、妥協せずにやりつくして収監される。きちんとジョーダンの人生をつなげないといけないから、上映時間も自ずと増えてくる。そして彼の人生の選択のひとつひとつに、結果が伴い、良くも悪くも彼に還ってきていた。見事な演出で、見飽きないコメディタッチ。

 起承転結をきっちり描けば3時間はいらない。だがめぐりめぐって彼はまたベクトルを変えたセールスの商売を始める。気弱な目をしたセールスセミナーの受講生たちの中から、第2、第3のジョーダン・ベルフォードが育っていくのだろう。マシュー・マコノヒーがレオ様に授けた、ブローカーのあり方は受け継がれ、この金で動く世界の物語は3時間では足りなくなる。選択して、実践して、結果が伴う。無限ループのようでもある。

 映画としては長い3時間。映画は時間のマジックで、途中経過は、省略される。けれどこの映画は映画の技法で省略を感じさせず、描き切る。

 

 ジョーダンをうまっすぐ追い詰めたFBI捜査官は、買収しようとしてきたジョーダンを思い出して地下鉄でため息をつく。でも私は、ため息は必要ないと思うのだ。

 良いも悪いも人生には結果が伴う。折れないことが大事なのだ。

 

 

 

 

「エイリアンVS.プレデター」 〜人類ではない生き物たちの定義

エイリアンVS.プレデター (吹替版)

  

 映画には人類以外の生物がよく出てくる。その人類以外を創造したのが、人類だったりする。だから映画の中にでてくる人類以外の生き物もまた人類の一側面じゃないだろうか、と思ったりする。

 卵からでてきた、カブトガニのやわらかいのが、人の顔にはりついて栄養にし、腹をくいやぶってでてくる有名なシーン。または、プレデターが戦うことのできないもの、または武器のないもの、病気のものを素通りして戦闘に向かうシーン。どれも、人類が似たようなことをやってきて、映画は、その一部分を引き延ばしてこねくりまわして、エンターテイメントにしてくれてる。

 人類でない生き物を創造できる人類はすごいと、よく思うのだ、この分野の映画をみると。もともと、スタートレックが好きな理由のひとつでもあるけれど、この作品とスタトレを一緒にする気はない。

 プレデターとエイリアンとの戦いでは、プレデターを応援している自分がいた。エイリアンの行動は人間の本能にもあると、なんとなく考えながらも、理解できない、理解したくない生物を考えてたら、当然、狩り、というプレデターの方が応援しやすい。しかし、人間を狩るというエピソードの映画も観たことがある気がする。10秒やるから、森に逃がされ、狩人が馬を駆る。SFではない作品で。つまりはそう、教科書には載っていない歴史なのだろう。

 

 閉鎖された極寒の地で、人々が惨殺されているどこかで見た場面だが、そこにオリジナリティを求める気がさらさらなく、やっぱりこの設定は面白い、と楽しんでしまった。古代の武器を持って帰ろうとしたり、一人で行動したり、嘘つきだったりする人物をみると、アカン、死亡フラグや、とツッコミいれるのもまた一興。どこかで観たシーンにも、観る側をぐいぐい引っ張ってくれるから全然OK、と妙な納得しながら観てた。

 

 吹き替えでみたのだが、ヒロイン、声かっこいい。さすがの本田貴子さん。そういえば、少し前にみた、「マイティ・ソー バトルロイヤル」でも天海祐希さんが素敵だった。さて、続編も見ようかな。