水がある限り金魚は泳ぐ

本と読書と映画とドラマ、そして雑文。

主観に関する私考

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主観というものについて
懐疑的になるのは間違ったことではない。
寧ろ疑うべきだ、果たして自分で考えたかどうか。
ただし手法としてである。
他人の受け売りの部分に気づくことこそ、
いつしか失ってしまった自分を取り戻すチャンスだ。

 

完全な客観性などは存在しないのは
今更考えるべきことではない。
なぜならば主観も誰かの複写であり、
複写したものを組み合わせれば
コラージュという芸術の一種になるのである。
唯一無二でないものも、
関係性によって唯一無二になりえることを
忘れてはいけない。

 

迷って悩んで不安になって、
人間は生きている。
それが主観であるかどうか、
疑ってみた結果、誰かの二番煎じと気づくのは、
方向転換をするのに良い機会である。
何をやっても結局一緒じゃないかと
成功した者たちを羨むのも、
他人や環境のせいだけにするのも、
プロセスとしてはあってもいいのだ。
だが、気づくべきだ。
そこは荒野なのである。
荒れ果てた土地で育まれるものはなく、
応急処置はできても回復はできるはずもない。
ただ、向かう場所から遠ざかるだけである。

 

ここはどこだろう?
荒野ではない

人の歩みの中にいる。
自分の道の上にいる。

出会った人たちの顔顔顔。
身近な誰かの顔顔顔。

別の道もあっただろうに、今いるのはこの道。
この道で生きているこの場所に立つ自分はたった一人。
暖かい場所だとか、恵まれているとか、
環境を描くよりもここにある自分の胸をたたく。
信じて疑って挫折して不安になって、
悩んだけれども、笑顔もところどころにあった。
ここから見る景色にも見えるのは顔顔顔。
立っているその場所は唯一無二。
私もコラージュになっている。
複写してきたのは出会った人たちの何か
複写してきたのは身近な誰かの何か
芸術というにはおこがましいが、
私は私だというしかない。

心臓のあたりを拳でたたいてみるといい。
心臓のあたりを、拳で。