水がある限り金魚は泳ぐ

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「青天を衝け」〜続ける工夫、終わらせない決意

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「勘定組頭渋沢篤太夫

 

 「信用経済」が始まった。貨幣の原型を説明する吉沢亮さんは相変わらず軽快に演じるし、吉沢さんの栄一と対する慶喜は、飄々として笑みを堪えているようだ。おしゃべりな栄一を子供時代に貼られたレッテルは青年時代にも発揮して、それが慶喜との関係性をつくっている。「気鬱が晴れる」そう、見ている間になんだか気持ちが和らいで張り詰めた糸がゆるんでくることがある。栄一喜作と慶喜の初めての顔合わせ、あのときは円四郎もいて、慶喜も若者の熱意を自分の力に変えていた気がする。今回も同じ。貨幣の説明の熱弁よりも慶喜は栄一の顔を見ていて、それを自分の力に変えているような気がした。

 まっすぐに意見のやりとりをして、物事がいつも決まるわけではないし、誰かが悪くて誰かの成果で物事が動くわけでもない。わかっていても動けなくて、だから、誰かのまたは何かのきっかけが、大きな潮目になることもある。

 

 今回の作品は、渋沢栄一のスタート地点で、これから彼は世情の波、勘定という役職で意識している小栗の未来、自分にやってくる文句などを味わうのだろうが、今それはまだ先のお話しだ。

 慶喜が栄一が思うよりもずっと、それこそとんでもなく大きく苦しんでいるだろうことを、喜作と住む場所が変わる場面で、さらっと知らされる。

 草彅剛さんの慶喜は、円四郎の代わりがいないこの時期、恐ろしく重い責を天子にも将軍にも申し訳ないと思われながらも背負わされ、一方的な文句も浴び、世情が見えているから自分自身にも、過大な荷物を貸している。表情が一時期のように消えている。面白い表現方法だ。このとき、どこまで自分の運命が見えているのか、おそらくこの先、栄一に吐露する場面が見れたらよいな、と思った。

 全く個人的になのだが、家茂に将軍を続けさせようとし、大政奉還した慶喜は、日本を続けさせようと工夫しまくっているような気がしている。日本を終わらせず、日本を続けさせる。これは、渋沢栄一がテーマのこの作品における慶喜というものを考えたら、思うところである。

 終わり、で、あとはおまかせすると言われたら、終わるのだ。

 長七郎のお金を送り続ければ、長七郎は助かる可能性を持ち続けられる。終わらなければ続けられる。続けられるというのは、生きることなのだ。

 工夫して工夫して。

 だが、今回描かれたのは、栄一の、栄一たらんとしたスタート地点。これからは、庭先で慶喜と出会って物事が決まるスケールではない。幕臣となってからの正念場をどうするのかが、現実を生きる私たちと重なるところ、きっとあるんじゃないか、なって思ったりしてしまった。