水がある限り金魚は泳ぐ

本と読書と映画とドラマ、そして雑文。

「脱原発」という意見の欠片を拾い上げてみる

 「脱原発」という意見の欠片を拾い上げよう。

 もしかしてウラがあるかも知れない。もしかして、また、ただのパフォーマンスかも知れない。別の企みの第一歩かも知れない。だが、意見は意見だ。

 

 もとより脱原発の私は小気味よく聞いた。原発護持派は、小泉節といえども受け入れまい。5割の態度未定者にこそ知っていただきたいと思う。

  

風知草:小泉純一郎の「原発ゼロ」=山田孝男

毎日新聞 2013年08月26日 東京朝刊

 

 説得力だけは強い、小泉純一郎氏のインタビュー記事をあえて引用せず、記事を書かれた方の気持ちをまず記しておこう。5割の態度未定者、とは、記事内で小泉氏が自身の人生経験から、重要な問題が発生した場合の「意見の割合」を指す。3割賛成、2割反対、5割が態度未定者。3割が力を持ち、意見が確定するが、残りの5割が、それを裏返しに出来る層、と言わんばかりのサジェスチョン。そのサジェスチョンこそが小泉純一郎氏らしいかも知れないとは、少し余談だが、だからこそ、記事を書かれた方が言葉にしたのだと思う。

 

週刊通販生活トップページ > 読み物:「さようなら原発1000万人署名」に賛同する〈脱原発国会議員〉は、現在93人。

  たくさんの政治家さんの名前がある。民主党の野田氏が総理大臣時のページだ。

 「通販生活」テイストのデザイン。きんさんぎんさんをCMに起用し、もともと社会問題への取り組みに特徴ある雑誌の発信。関連して、前述の小泉氏のインタビューの一部を、再び引用させていただくとしよう。

 −−今すぐゼロは暴論という声が優勢ですが。

 「逆だよ、逆。今ゼロという方針を打ち出さないと将来ゼロにするのは難しいんだよ。野党はみんな原発ゼロに賛成だ。総理が決断すりゃできる。あとは知恵者が知恵を出す」

 

 2013年の参議院選挙で、山本太郎さんの当選したときに、東京に原発推進派の人がいうほど多くないのだと思った。きっと、小泉氏の言う、5割の態度未定者が動いたのかのしれない。

 

 きれい事にはウラがある。理想には脆弱さが付きものだ。そんなことはわかっていても、意見には可能性がある。

  映画やアニメ作品における巨大兵器とかの動力源についても、クリエイターさんたちの思想(原発推進脱原発どっちも)が入っていたりするが、私には詳述は無理なので、触れるのみである。

 

 ずっと嘘だったんだぜ斉藤和義さんは、今も変わらずインターネットの動画の中にいる。たくさん、いる。

 

 「脱原発」という意見は、本当にいっぱいある。有権者さんの一票にもある。クリエイターさんの、アーティストさんの頭の中にもある。政治家さんの考えの中にもある。有名な企業の中にもある。そして、私の中にも。

 

  

f:id:miisan555:20130826172820j:plain

 

「私の日本一」を探してみたのですが探せませんでした。

今週のお題「私の日本一」

 正直に言おう。「私、書けないや、このお題」。

 参考に、投稿された記事を読ませていただく。素敵だな、と思うものも多い。で、自分の周囲を見渡してみる。大事なものはいっぱいある。語ってみたいこともある。でも、「私の日本一」のアプローチができないのである。

 

 オリンピックを見ていると、世界記録に大会記録、日本記録も紹介される。次々と記録が塗り替えられ、そのうち、50mなんて、ヒュ〜〜と風が吹いたように通り過ぎる人も出てくるのかも、である。いつか、大会記録を持っていた人が2番目なり、2番目の人が3番目になるのだな。いつのまにやら、日本記録から遠ざかり、小学校んとき、10秒台で50mを走っていた私に収束してしまう。ダメだこりゃ。

 

 日本一、日本一・・・。

 王貞治さんを連想してみる。1940年に日本で生まれた、中華民国国籍の元プロ野球選手。通算本塁打868本は日本プロ野球の記録である。なかなか、2番目とか3番目とかにならない記録である。いつか、世界のどこかの、野球が大好きなかたが、この記録を塗り替えてもきっと私は祝福できる気がする。国籍なんか関係ないのである。いかん、テーマがずれてきた、記録が塗り替えられては日本一も語れない。

 

 いつか読んだタイトルも忘れた刑事が主役の漫画で、「夢は世界征服」と言った少年の性格を疑問視するネタがあった。世界制服したら、きっと唯一無二の存在になるのだろうな。日本一どころか、世界一、宇宙一だな。ちと、孤独かも知れないだろうけど、というのは、私の感想。漫画の中の変わり者の刑事は、夢は大きな方がいいと言っていた。そして、大きな夢は大人の方が必要だと言った。叶えられないけど、いつまでも追いかけられる夢を持っていた方が、人生は楽しい。あれれ、日本一が夢と近づいてまたまたずれてきた。

 

 私の代わりなぞ、どこにでもいると、思えたりする。私も誰かの代わりをすることもある。十把一絡げな小さな存在だと卑下してしまう、マイナス思考の自分もいる。くそ、とんでもない、お題だな。

 

 「私の日本一」を探してみたのですが探せませんでした。でもなぜだか、全部、日本一に思えたりもするのである。

 

f:id:miisan555:20130823184606j:plain

 

「ローン・レンジャー」なるほど、史実を疑うための映画なのである。

 冒頭からローン・レンジャーとトントが銀行強盗をおっばじめる。正義の味方がなぜそんなことを?となる謎掛けは、映画慣れしていたら、「たぶん、理由があるんだろーうなー」くらいで、引っかかる程の伏線ではなかった。ディズニーだから子供向けの伏線だなあーとスルーする。ある意味、正解だろうが、そうでもなかったりするのは、その後の展開で、とある監督の名前が浮かんだからである。

 

 ゴア・ヴァービンスキー監督作品!

  「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズとかぶる登場人物の演出だなあ、と感じたときは監督をチェックして観てなかったことを自己確認。でも、ぜってえ、ゴア監督だあ、と自己肯定するしかなかった映画展開。案の定、間違ってなかったのだ。

  銀行強盗をおっぱじめる場面は、もはや無法者をなったマスクをしたローン・レンジャーである。銃を嫌い、文明社会の常識的な判断を信じ続けたジョン・リードではない。コマンチ、トントには、のちに同じ種族の族長クラスの老人たちから語られる幼い頃の哀しい物語があり、コマンチであるが、コマンチとして行動しない存在になった。

 「パイレーツ・オブ・カリビアン」の登場人物をおさらいしてみた。ウィル・ターナーとエリザベス・スワンは夫婦になる。だがウィルは、10年に1度しか陸に上がれない船の船長で、エリザベスも良家の娘さんでありながら後に海賊になる。夫婦であり、家族であり、海賊で、二人ともジャック・スパロウ船長には、絆は感じながらも、好きでもあり、嫌いでもある振る舞いを見せる。そのジャック・スパロウ船長は、映画を観たたくさんの方が感じたように、海賊ではあるが、海賊の中でも唯一無二の存在である。

 

 両者の映画の登場人物、どっちもすっきり割り切ってないのである。だがすっきりわりきってないところが興味深い。

 

 「ローン・レンジャー」の他の登場人物もすっきり割り切れない。

 死に際にジョンの兄、ダン・リードが言う通り、ダンの妻レベッカは、弟ジョンへの愛情を抱いている。だが、ダンが生きている間は、レベッカとジョンは一線を越えることんあい間柄のようだった。

 私が個人的に興味深かったのは、騎兵隊の隊長の存在である。正義をかざしながらも、私欲で物事を決断し、部下には正義を唱え続ける。この騎兵隊を、ジョン・リードは当初、自分を助けてくれると信じきっていたようだった。

 ブッチ・キャヴェンディッシュは、コマンチを偽装して、コマンチをアメリカ側の悪人に仕立て上げた。そして兄のレイサム・コールの計画を手助けする。

 物語の核は、レイサム・コールの大陸横断鉄道にある。

 大陸横断鉄道が多くの人にもたらした利益とさまざまな発展は、私たちが生きる現代社会を構成する礎のひとつである。その礎には、もとからそこに暮らしていた人が、鉄道の敷設によって排除された歴史があり、その歴史は、望んで受け入れられてものもあれば、そうでないものも少なくはないのである。

 ややもすれば埋もれそうになる現代に至るまでの長い道のり。史実ではそれらを多面的に説明できないのだ。だが、映画は、さまざまな側面から説明してくれる。油まみれの鉄道を敷設する男達、銀を掘り出すのに雇われる中国人、死を覚悟して戦うコマンチの面々。などなど。

 

 史実の通りだと、主人公たちは正義に属さないといけない。その正義は現代をつくったものに基づいないといけない、でないと、現代が「悪」になってしまうからだ。だが正義の旗なんてのは脆弱。ジョン・リードの銃をもたない信念はもろくも崩れ去り、「パイレーツ・オブ・カリビアン」でも、海賊じゃなかった二人の登場人物は海賊になっている。彼らは、現代の礎となったものを守るための正義には属さず、自分が信じる方へと動いただけ。

 私たちの生きる現代社会は、正義に守られているわけではないのである。悪にまみれている部分もあれば、悪に生かされている部分もある。偽善という正義を信じて疑ってないことに気づいてないだけかもしれない。

 

 正義か悪かを二元論で問えれば楽ちん。でもそうじゃないからややこしくなる。

 トントが時々、細かいことは気にするな、という顔をするのが興味深かった。その表情には、「そんなことは気にせず、自分で決めろよ」みたいな問いかけがある気がする。

 

 

 ウィリアム・テル序曲がかかれば、ただただ、娯楽の世界へ連れていってくれる。実は、その娯楽が楽しすぎて、それまでの道のりが長く感じられたりする。映画としては、率直な感想であるが、それほど、素晴らしいクライマックスだとも言える。

 でもそこにいくまでの道のりこそ、ジョニー・デップ主演のこの作品の唯一無二なところであると思うのだ。よく考えてみれば、典型的な正義の方が、幻想なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

理屈で説明できないけど居座っている怪物のような

「だって、そーなるんやから止めようがないやん」

 これは恋愛話をしていたときの友人の台詞。若かりし頃だ。

 私の方は反撃するつもりもなく、この問いに勝手に自問自答していた。

 

 自分が好きになったことで、他の人がめちゃめちゃ不幸になるっての、受け入れられるんか?恋愛って、めっちゃ、優先順位高そうやけど、幼い子供の将来とか奪う可能性、あるんやけど、そやからって、止められるんか?

 

 ぐるんぐるん。

 

 余談だが、まだ結婚して間もない頃、就職活動したら面接の人に「一人にしたら、浮気するかもよ」なんつーことを言われたなあ。言葉は違えど、何回かあったぞ。この話は家族にもしておいた。反応を見たかったからなのだ、うししし。

 

 食べたい食べたい、どーしても食べたいと思うこともある。

 飲みたい飲みたい、どーしても飲みたいと飲みたいもある。

 

 特に、後から後悔するような状況んときに。案の定、後悔するのである。後悔しても得られるものがあるが、おなかの調子が悪くなったり、苦しかったり、サンザンなことは少なくない。

 

 イラッ、となるのは、時に理由もなく。イライラは誰にでもある。明るく家族や友人に「やつあたりん」とジャレてしのぐこともある。本音は腹立っているかもだが、許してくれてることに感謝。

 

 イラッ、ときて、起こる犯罪もある。

 イラッ、を押さえ込み過ぎて、壊れる人格もある。

 

 安易な方法を覚え、安易な方法しかできなくなることもある。そのうち、一歩一歩歩くことを忘れてしまい、何も進まなくて立ち往生。そうなるのが、恐ろしくて、お金をだしても、だし過ぎても解決せず、ただ漠然と安易な場所から離れられなくなることも。

 

  ぐるんぐるん。

  

 理屈で説明できないけど、居座って離れない怪物がいて、私に乗り移って、回りのことも大事なこともぶっちぎってしまいそうなときがある。

 

 でも、なんだか許せてしまうこともある。我慢も悪くないときもある。怪物退治は簡単じゃないけれどね。

 

 「だって、そーなるんやから止めようがないやん」

 確かに、止められないこともあるかもしれない。

 

 他人の気持ちになって、共感できることは結構、幅広いのである。

 

2013年8月。戦争を疑似体験した思い出を掘り起こしてみる。

 

 お盆を過ぎても暑い日々が続く。

 戦争を知らない世代にとっても、「夏のイメージ」の中に戦争はあると思う。いや、思うじゃない、あるはずだ。物心ついた頃に、8月15日が終戦記念日だという話題がどこかで起こる。日本中のどこかで起こり、そこにも子供がいて、オトナ達はわかんないだろーなーという顔をしながら教えるのだ。

「日本にも戦争があったんだよ」

 おおざっぱな伝え方は、子供に手がかりを残すためだ。この先、普通に勉強すれば、その戦争のことだけでなく、歴史上の戦争も知ることになるし、世界中至るところで今も戦争が起きていることも知るだろう。

 だが、8月にオトナから聞かされる初めての「戦争」の言葉は別格なのだ。

 

 幼い罪を犯した思い出がある。

 親戚の家で古い写真を見せてもらったときのこと。ひときわ大きなキノコ雲の写真を見て、私は本当に重い罪を犯した。幼いから許されたが、重い重い罪だ。

「キレイ」

 オトナ達が凍り付いた感覚と写真の背景を説明してもらったことは覚えている。直後に、自分が激しく罪の意識を感じたことも。

 

 旅行が好きで、日本中いろんなところを回った時期があった。そんとき、この国に生まれたら「絶対行っとかなアカンとこ」印をつけた場所があった。広島平和記念館である。当時は、「原爆ドームは行っとかなアカンとこ」みたいな言い方をしていた。もちろん、行ったし、記憶に残ってるし、「行っとかなアカンとこ」意識さえも継続していて、ときどき人に手前勝手に広めていたりする。

 

 和歌山に友ヶ島というところがある。夏は美しいところで、家族連れで磯遊びするにもおすすめらしいのだが、私が訪れた目的は、第二次世界大戦が終わるまでは日本軍の軍用地で、一般の人が入れる場所じゃなかった話の確認と大戦中の施設が残っていることからだった。実際、点在する施設に圧倒される。狭いレンガのトンネルを抜け、走り、多くの人が生活し、戦争の時代を生きた生々しさを感じてしまった。

 

 いくつかみた戦争映画、本もそうだ。

 その物語になった風景が生々しく現実となったのは、「阪神淡路大震災」。映画でみた焼け野原が現実となってテレビの画面にあった。映画じゃなくて現実。関西人の私にとっては、本当に身近な場所が無くなっていた。たくさんの命とともに。「あれ」と一緒だと思った。「あれ」とはもちろん、あの、戦争。悼む。痛む。

 

 仕事で、戦争に関わる写真集に携わった。日本人が中国の方を収容している時の記録だった。覚えているのは、人間一人が入れる箱に、中国人の方を入れておく拷問のエピソード。写真もあった気がする。狭い、と思った気がする。目を背けたいと思った気がする。背けてはいけない、と思った気もする。

 うろ覚えでも鮮烈な記憶がある。

ぼくたちの好きな戦争」という本と、森村誠一氏の本にあった「731部隊の記録が、今の医学に役立っている」らしいという記述である。作品そのものも、読み応えがあった。その上で、戦争がプラスの効果をもたらす発想を知った作品でもある。だからこそ、利益をもたらすから戦争が起こることがある。こういう側面を鑑み、国政選挙、地方自治体の投票を含めいろんな決定を私たちはしないといけない。世界のどこかで戦争が起こっていること、基地を持つ地域のこと、など、いろんなニュースは人ごとじゃない。

 

 今年は本当に暑い夏だ。年齢を重ね、たくさんの疑似体験をした戦争。あの時と同じ夏の中で、私たちは生きている。

f:id:miisan555:20060922175034j:plain

 

 

 

すべては祭りの日のために〜夜の岸和田、即興散歩

 2013年8月16日、19時。

 家族と別行動の時間が出来たため、岸和田の駅周辺を一人でテクテク歩くことにした。22時にはホテルに戻っていて欲しいということなので、約3時間弱の散歩である。

 ホテルで手に入れたデフォルメしまくり地図と、南海・岸和田駅の詳細な地図を見比べ、位置関係を把握することからはじめる。NHKの朝の連続ドラマの舞台で、岸和田城があるが、どこも閉館である。何やるねん?みたいな状態だった。

 

 それでも立ち止まったりしないのである。

 ぐるり、と見渡し気になる方に体を向けるのみ。

 即興散歩なのだ、その場で方向を決めて楽しむのだ。

 

岸和田だんじり祭り」の献灯提灯が上下左右壁のように数多灯っている。歩く道を照らすように、横に連なる提灯もある。

 よし、まつりの雰囲気味わうか!、と勝手にきめる。

 とはいえ、視線を上にやれば、紫のネオンロゴに惹かれてしまい、近づく。葬礼会館だった。デザインが入ってるぽいロゴをみるとフラフラと近づいてしまう習性は治らない。平たい大文字の書体、紫は大胆だけど業種的にいけるのか、と分析して、反対側の道へ。駅前のドラッグストア、一字違いで某有名スーパーと同じ名前のスーパーに入って一巡する。お菓子のディスカウントショップが10%引きだったので散歩のお供にと、せんべいやら飴ちゃんやらを仕入れる。この間、一切、時計を見なかった。

 

 駅前の商店街の電飾も、小さな法被のカタチをしていた。なんだか可愛い。

 

 商店街をどんどん歩く。

 ふいに、ホイッスルと男達の野太い掛け声が聞こえてきた。私の地元の秋祭りがなかなか威勢がいいので、思い出して血が騒ぐ。だんじりは担いでなかったが、見えないだんじりがあるかのように威勢の良く掛け声合わせながら若い男達がランニングしていた。これって、まつりのトレーニングなのか?と勝手に解釈した。途中、大きめの道路で数人の男たちが、道にチョークでカーブを書いていた。「掛け声ランニングマン」さんたちと風情が似ている。「当日はだんじり、このくらいの弧を描いて曲がる感じ〜」みたいな仕草があった。だんじりをカーブさせる時のための打ち合わせに思えた。

 祭りが近いのだな。

 祭りのための街の飾り、体力トレーニング、打ち合わせ、その他もろもろの工程。無事にまつりが行われるように、熱く、楽しく、過ごせるように。ここは岸和田、だんじりまつりの街だと痛感する。

 

 中古自転車専門店、ラーメン屋、焼き肉屋。作業服のお店もある。前方に大きなドームの建物が。あそこをラストにしようと決める。

 

 即興散歩の醍醐味のひとつ。

 自分の行く道は自分で決める。休憩もUターンもみんな、自分で決める。

 

 大きなショッピングセンターなので、着替え一式を買おうと衣料品売り場へ。「ほたるの光」が流れてきた。レジで閉店時間を聞く。20時と言われて時間をやっと確認する。飲食店は22時までやってる店もあるから、ショッピングセンターの地図をゲットして位置把握。残り時間を読書にあてることにした。池井戸潤さんの小説を読みながら珈琲を飲む。ゆったり時間は流れるが、ゆっくりもしてらんない。

 

 初めて訪れたところはどこにいくにも、距離感覚が掴めないから戸惑うものだ。ショッピングセンターでも帰路へ向かうため出口探しをしてしまった。何度も行ってる場所なら広くても何も考えないままに、ルートがとれる。だが初めてだとそれもなかなか。

 だからこそ、即興散歩。大体の位置把握して、体が向いた方へ歩きだす。時には逆方向に歩いて、ぐるっと建物一周なんてことも。ヘトヘトになりながら、苦笑い。

 

 自分でやってみて、出る結果に苦笑い。失敗もあるさ。

 でも目的は失わずに。ここで「岸和田だんじりまつり」が行われる。そのための熱気を短い時間だが、しっかり味合わせてもらった。感謝。

 

 今回の即興散歩は一直線でわかりやすい。道を聞くことなくすんなりホテルに戻る。

 

 「ただいま」とノックがする。家族がホテルに戻ってきた。

 「おかえり」。ちゃんと出迎えてあげられた。

 

 

 

 

 

 

「風立ちぬ」現実に勝てなくても生きていこうよ。

 

 スタジオジブリ作品「風立ちぬ」鑑賞。

 関東大震災第二次世界大戦という天災と人災がチャンポンの時代である。主人公の堀越次郎氏は、零式艦上戦闘機の設計主任として有名。

 

 美しい、という言葉が映画の中でよく出てくる。特に主人公は飛行機に絡むと、サバの骨も美しいという。実は、私、その感覚がよくわかる。つまりは、自分が目にした者の中を美しいと感じる感覚というか(照れる)。例えば、映画館に行くまでに7階から11階に直通のエスカレーターから見下ろす大阪駅の、天井と時計台と列車と人のアンサンブルが美しいと思っていた。計算された骨組み、ランダムな人の流れ、互い違いに止まる上からみた列車。人の英知があり、息吹がある。

 その意味で、第二次世界大戦で、悲痛なイメージさえあるゼロ戦が、戦闘機に詳しくてない私でも、美しく優秀な戦闘機という評価を受けていることも理解できる。余計なものを削ぎ落としたものは、普通に美しい。当時の技術者さんたちの英知の結晶でもあるのだ。

  自主的な勉強会ということで、堀越氏が若い設計者さんたちと深夜も活発に議論している場面がある。堀越氏の上司たちもそれをワクワクして見ていた。完成品の美しさを構成する、重要な要素なのだ、それも。f:id:miisan555:20130815015943j:plain

 愛しい男性のために、美しい自分だけを見せようとした里見菜穂子さんの切ない想い。死を自覚した彼女は、散歩すると言って遺言を残し病院に戻っていく。その心を理解した堀越氏の上司の奥方の優しさ、同じ若い女性として共感した堀越氏の妹の優しさ、女性たちの心根の豊かさもまた、美しい。

 カストルプという、クレソンをやたら食べるドイツ人が出てくる。トーマス・マン魔の山」の主人公と同じ名前である。彼が出てくるのは、戦火とは隔絶された高原で、そこで堀越氏は菜穂子さんの病気を知り、彼女に結婚を申し込む。「魔の山」の分析そのものは、私には出来かねるが、そこは時間の止まった場所だというのはわかる。堀越氏と菜穂子さんの恋人としての時間も描かれ、カストルプがピアノを引けば、皆が歌いだす。

 

 だが、日本もドイツも、世界を相手に戦争をはじめた。破裂寸前。

 そんな現実の中で、零戦は出来上がる。

 戻ってきた機体はひとつもない飛行機である。

 

 堀越氏は、少年の頃から何度もカプローニ伯爵と夢を共有する。カプローニ伯爵は堀越氏に風が吹いているか、と何度も聞く。関東大震災のときも、そう。吹いていれば、夢は展開する。どんな苦難の時代でも、風がある限り、まだ大丈夫だといわんばかりに。飛行機は、戦争の道具だった現実。いつか、旅客を乗せて空を飛びたいと願うのは、この映画では夢でしか描かれない。零戦の末路は、堀越氏の飛行機が夢に勝てなかった現実かもしれないと、さえ、思ったりする。

 

 それでも、風はまだ吹いている。

 風がまだ感じられるなら、まだ大丈夫。

 

 よく見慣れた、やさしいタッチの作品である。だが、この作品の時代背景は本当に厳しい。人災と天災がチャンポンで、人間の命を奪った厳しい現実。人間ひとりひとりの夢なんぞ、怪物のように現実は、食いちぎっていっただろう。

 それでもだ。それでも。

 

 映画館のある11階からの景色は、なかなか美しいのである。