ある脚本家の伝えたいことを想像する〜「3年A組」と「ニッポンノワール」
あまりにも荒唐無稽と思える物語の中にある現実は、私たちが生きている現実とそう違わない、と思えるかどうか。そんなことを考えながら武藤 将吾さんの描くドラマを見ようと試みていた。
3年A組-今から皆さんは、人質です-
ニッポンノワール-刑事Yの反乱-
荒唐無稽?いやいや、私たちは手塚治虫さんの作品が現実になっていることを知っているではないか。
大学で社会学を学んだときに、この社会学という学問が大学にならないと学べないことを不思議に思った。現実というものを覆し、個人と社会なんて鶏が先か卵が先かと思わされる答えのでにくい学問は、大学生にならないとわからないものかもしれない、なんていう理由で納得はできないこともない。だが、社会学という外から世界を見る学問は、高校であれば、学ぶことは可能ではないかと思える。そうしたら、ひとつの事象が社会でどう影響しているか、考える機会にもなる。
例えば、フェイク動画を信じたら、ヒーローも犯人に認定されるというような。
という物語のエピソードが盛り込まれ、覆し、嘲笑う主人公と、ニッポンノワールというとんでもない組織を白日に晒そうとする刑事に巻き込まれ超人的な力を発揮する主人公なんて設定はありえない、と、そう、現実ではありえない、と割り切れないことが、社会学的思考だと考えられる。
他にも、思いつくことがある。
仲良しに見えて仲良しでないかもしれないアイドルグループ。でも私は仲良しかどうかなんて、超えた存在だろうな、と想像する。
二度と見れないだろう映像を思い出す。ニュースで見た、木枯しの中を歩く若いコート姿の女性だ。外交官だったか、今も、流暢な英語で外交しているようだ。
想像する。
なぜ彼は裁かれなかったのか。民事で女性は勝ったが、刑事では起訴にいたらなかったのは何故なのか。彼は、起訴を逃れられるほどの権力者と知り合いだったから?どんなドラマのようなことが実際に起こったのか。
白日の元に晒す必要はないかもしれない。問題は起こらないほうが平和だ。
隠して隠して隠して隠しまくって、この世界を続ける方が多くの幸せを生み出せる。だが、武藤将吾さんのドラマの中では、将来の夢を失い、希望を失い、生命さえ奪われる人が、そんな荒唐無稽な世界の中で存在する。
いや、そんな人は荒唐無稽な世界だけじゃない。
白日にさらされるべき現実で、のうのうと生きられるという確証はどこにもない。劇的な力をえる新薬に適合する人間がいる可能性と、珍しい血液型や罹患する可能性が少ない病気、それらは確率の上ではそんなに大差ないかもしれない。
荒唐無稽な方がドラマは面白い。だが、荒唐無稽だと笑ってられないのではないか、と物語は伝えている気がする。ぐっ、くる、パッとと考えてはどうだろうかと。