水がある限り金魚は泳ぐ

本と読書と映画とドラマ、そして雑文。

どこから提供された情報を私たちは見ているのか。〜SMAP騒動と戦争の可能性〜

 2016年1月18日のスマスマ。率直な違和感は、キムタクさんがセンターなことや中居さんが4番目に発言したことではない。

「この人たちはもっと、演技が上手いはずなのに」

 ということである。

 演技であるか否か、本音の発言か台本があるか、はたまた報道されているような事務所サイドの要望が故の演出なのか、追求したいとか、善悪のレッテルを貼りたいとか言う気持ちはない。SMAPさん参加のエンタメに幾度楽しませてもらったかわからないので、彼らが嫌いよりは、好きの方が針が振れている。おまけに、中立の意見を心がけられるほどの意見もない。ただ、単純に、「この人たちはもっと、演技が上手いはずなのに」と思ったのである。

 キーワードとなる、木村さん、草彅さんのコトバから読み解けるストーリーがある。だが表情やセリフ回しから伏線を回収するような説得力がなく、多くの方の反応と同じようにモヤモヤする。見る側にそういう反応をさせる映画は存在するし、俳優達は見事に演技して私たちを物語りの世界にいざなってくれる。アクションができるのに、できないフリをしている序盤、人生を変える事件と良き師に巡り会い、終盤戦、素晴らしいアクションで見る側を爽快にしてくれる。優れた俳優は、善悪も上手下手も違和感なく表現する。SMAPさんは充分にそれができる力をお持ちなはずなのに、その力が発揮されていない気だけが、ただ、した。

 

 とりもなおさず、私にとっては笑ったり泣いたり、人生を楽しくさせてくれたSMAPさん、ということ以上にSMAPさんに対して何かを思うつもりはない。その実績があるからこそ、「この人たちはもっと、演技が上手いはずなのに」とも思った。2016年1月18日に、演技が見たかったわけでもないのだけれども。

 

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「進撃の巨人」実写映画感想。「駆逐してやる」に至るまでの道程

 エレンは実写も巨人になるとは思ってはいた。映画を面白くするならそうくるはず。そういう展開じゃないんなら面白くなるはずないから エレンが巨人として覚醒するまでが前編、でいいのだと思って観てた。だって、ウルトラマンでも仮面ライダーでも、どういう経緯で変身できる存在になるのかは、大きな見所なのだ。そしてそれは、主人公の性格を大きく表現する仕掛けでもある。

 

 前編は確かに、エレンが巨人になるまで、で合っていた。

 でも、それまでの道程が、私の記憶が間違っていなければ、何か物足りない。

 ミカサは死んでなかった。

 アルミンを無事助けた。

 そして。

 巨人の飲み込まれたエレンは、体液まみれの中で「父親になって欲しい」と迫ってきた女性が消化されているのを見て、激情に駆られる。

 何度も、私は記憶の間違いであることを願っていた。

 ミカサの、アルミンの死によって激情に駆られたのではない。

 今回、少しばかり共に行動し、男と女の関係になる序盤にいた女性の死をみて火がついたのだ。心の優しい青年だとは思う。知り合いの命が消えるのが許せなかったのだと思う。でも映画としてはどうだろう。

 

 「子供のために兵団に入り、生きて戻ると誓った女性」の死がエレンを覚醒させたとしよう。生きて子供と暮らすには父親が必要と考える女性の設定は理解できる。(巨人ではあったが)赤ん坊のなきごえにも敏感に反応する母性の持ち主で、後編の伏線であるかも知れない赤ん坊の巨人を登場させるには絶好の登場人物かもしれないと思ってはみても、エレンにとって、彼女が巨人に覚醒する直前のエピソードなのは、どうしてもスンナリと入ってこれないのである。

 

 ミカサ、生きてたよね。

 アルミン、必死で救ったよね。

 

 自分の発想が後編で間違いだと正させる可能性ももちろんある。でも、エレンが巨人になるまでの縦糸の時間軸としてはどうも、受け入れられない。

 

 思わず、長大な物語を短縮しまくりつつ、伏線を拾いまくっていた「寄生獣」という映画の脚本家の名前を思い出す。母親の死をもって闘う泉新一へと変身させた物語は、監督のテイストでもあるなと、いう記憶を思い出す。あの監督の映画なら、父親になって欲しいと迫った彼女は、時間が空いてるときは子供の写真をいつも見ている母性あふれる女性になっていたかも、と思い、エレンにも母を慕う気持ちがあれば、彼女の死が感情を爆発させる引き金になりやすいかも、とも想像した。

 が、その「お涙頂戴」が優れていると思っているわけでもない。

 ただミカサとアルミンが生きているのである。

 教会のシーンで、子供を助けようとしたミカサを、自分の身を顧みず助けようとしたエレンの性格ならば、知り合いの死は覚醒の引き金になってもいい。

 でもミカサが生きていて、アルミンを救い出せて良かったね、と思っていた矢先である。どこかで、あれ?と思っていた。

 原作の「寄生獣」できちんと死体を見て平常心を取り戻し、その平常心に疑問を持つ泉新一の心理を思い出したりする。

 物語に入ってないのだ、私は。

 それとも私の感性が劣化していて、気づけないだけなのか。

 

 そんな風に観ていた「進撃の巨人」なのである。

 

 「巨人」とは何か、とか謎を掘り下げる映画だったらハンジさんの出番だよなと思ったりする。後編はそうなるのか。友情なのか、恋愛なのか。アルミンやサシャが好演していると思えたので、二人の活躍によって絶望が希望になるのか。もしかしてエレンが巨人になり、エレンの犠牲によって物語が収束するのか。

 

 個人的には、「巨人」とは何か、を「生命」とは何かにつなげて、捕食とつなげて、進化とつなげる、興行成績があまりよくならないタイプのSFが好きである。

 

(追伸)

そういえば、一番の敵は「安全」とか「家畜」とかいう台詞もあったな。そういう台詞に依ったテーマの物語だったら、「生命」とつなげて考えたい私はすごく悲しい。生きるために殺すというのは前面に押し出すと物語の答えが単純になってしまう。それは正しい部分もあるけれども、間違っている部分もある、という「受け手によって違う」映画であって欲しいと切に願う。

 

www.oricon.co.jp

 

トピック「進撃の巨人」について

大丈夫?と困惑しながら笑い続けた。〜THE MANZAI 2013

 思わず画面の前で手を叩いて笑いながら漫才を見るのは本当に久しぶりだった。

 手を叩く必要なんてないんだけどね。ただ、吹き出して、目を細めて、勢いよく手を叩いたとき、画面の中でも、会場が沸いていて、演じる漫才師さんは上機嫌の顔をしている、これって、幸せな時間だと認識すべきものだと思うのだ。当り前の話だが、幸せは簡単に得られるものではない。だから今年のTHE MANZAI 2013のファイナルには感謝である。おつかれさま、ありがとう。

 

 

 スポーツの最高の試合を観戦したときのような。

 幸せな時間だった。息詰るスポーツの試合をリアルタイムで観戦したときのような感じに似ている。その試合は二度と再現されない。その1分1秒を共有している時に、無駄な御託はいらなくなるのだ。だからこそ、出演者一人一人に対する感謝からまず始めないといけないと思うのだ。

 

 

 漫才を知る者はネタの変化に気付きながら見ていた。

 ふと気付いた。THE MANZAI 2013の審査員、および、北野武氏がネタの選択にたびたび言及していたと。M-1ぐらんぷり、の時にも見られたが、そのときは、評価の一形態でしかなかった。だが、今回は出場する側が拮抗していたこともあり、「ネタの選択」の差が勝敗に関わってくる、または、その差こそが、技量の差がない中での数少ない選択肢という指摘にさえ思った。

 自分たちのやりたいことをやるか。

 勝ちやすいネタ、受け入れやすいネタをやすか。

 

 ファイナリストたちの話芸

 漫才も他に漏れず、才能と努力によって一定のレベルまで引き上げられるものだろう。よく通る声も滑舌も、そして表現力も一朝一夕ではないだろう。全ての職業にも言えるように、ある一定のレベルまでは、多くの人が到達できるものだ。今回のTHE MANZAI 2013も、そのレベルを超えた漫才師さんが集まっていた。

 だからこそ、自問自答しただろう。

 

 自分たちのやりたいことをやるか。

 勝ちやすいネタ、受け入れやすいネタをやるか。

 

 そういえば、最大の賞品はメディア露出だった。

 だが、果たして、技量の差が拮抗していたなら、ネタの差が評価につながるのだろうか。勝ちやすいネタをすることが正しいのだろうか。

 審査員や、北野武氏は今回のTHE MANZAI 2013に疑問を呈して、「ネタの選択」ご言及している気がする。ましてやこの番組の最大の賞品は、テレビ出演である。商業ベースに乗れない芸人さんを選抜できるはずがない。いや、選抜されるはずはない、という考えは、演じる側にも常に頭に浮かんでいたことだろう。

 それは仕方がないことだ。

 

 それでも先の先を超えて行こうという試みが見えた。

 今回の「ウーマンラッシュアワー」の漫才はTHE MANZAI 2013という番組をパロっているようにも見えた。お笑いが好き、みんなの笑顔が好きといいながら、相方に、有名になりたい、もてたい、と言わせる台本の仕組みの中に、お笑いが好き、だけでは成立しない現実に対して、お笑いが好きであるものたちが反撃しているようにも見えた。

 今回の「NONSTYLE」の漫才に、いくらボケが多いと言われてもボケ続け、漫才を楽しむ姿を見た。

 しかしこの二組こそが、突出した勝ちにいく漫才だった。私は困惑しながら笑っていたと思う。 

 だが、また気付く。この番組の趣旨を彼らは乗り越えようとしていた。

 

ネタをつくり、演じ、演出をかねた漫才という芸

THE MANZAI 2013」を見ながら、だんだん、「ウーマンラッシュアワー」と「NONSTYLE」の一騎打ちを見たくなっていた。

 「NONSTYLE」は決勝よりは勢いを失したが十分すぎる話芸に吹き出す。審査員の一人が彼らを進化したと言ったが、まさにそう。井上はマイペースだが、石田がだんだん楽しくなっているようだ。もっと笑わせたいと、いう意気込みが漫才を豊かにする。自分たちの持っているもので戦おうとする意気込みがあった。

 「千鳥」の二人の顔が、関西にいるときに近づいてきた。時折見せる表情がやわらかい。勝負する「千鳥」ではないが、皆に愛される「千鳥」になっている。

 そして「ウーマンラッシュアワー」。

 村本のキャラ全開が石田の激しいボケに重なる。井上が安定したツッコミをする。表情もよく受け止めている。だが、村本に翻弄されるパラダイスは、漫才の立ち位置で、表情を豊かに変え、のけぞり、あらん限りのパフォーマンスを見せた。演出が強い。映画と同じように、俳優の演技だけではなく、演出の上手さも作品の要素ではある。そのわずかな違いが勝利を呼び込んだ気がする。

 

自問自答しながらも選択するのは自分。

 漫才を知る審査員たちが見ていたように、賞を狙う漫才師さんたちの漫才がかつてと変容しているのだろう。リラックスした「千鳥」が見せてくれた芸の楽しさは、他の二組よりも漫才らしいとも思う。

 でもその実、もっと先があることを、見せてくれる大会にも思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

村上弘明さんが2013年の大河ドラマで無双状態らしい件のあれこれ。

 NHKさんの大河ドラマから離れて久しいが、久しぶりに興味津々になりそうなネタが流れてきた。2013年大河ドラマ「八重の桜」で、村上弘明さんが、松平春獄役で無双しているらしいのである。なんか、春獄が福井に帰ってしまったので、これからすぐに会えないっぽいらしいのが残念である。

 

 俳優さんは、鳴り物入りで良い役を演じられても話題にならないこともある。でも逆に、思わぬ役柄で、話題になったりする。

 

 村上弘明さんは、仮面ライダーや必殺仕事人といった、「アタリ役」のある俳優さんで、海外ドラマでいったら、イメージが固定しやすく仕事がしにくい時期もあっただろうに、と思う。端正なお顔立ちで、ヒーロー的な役柄が似合う中、今回は大河ドラマとはいえ、突き詰めて腹黒っぽく松平春獄を演じてらっしゃると聞き、評判をネットで検索すると、総じて好評なようである。それも、彼のアタリ役を知っている方からも、だ。

 「アイアンメイズ ピッツバークの幻想」という野心作で海外に挑戦し、「プルシアンブルーの肖像」では、汚れ役教師を。現代劇でもたびたび拝見し、コメディ的な間合いもお持ちの俳優さんだと思えたりした。時代劇でのご活躍はあまりにも有名。

 

 私が個人的に好きなのは「秀吉」竹中直人版での明智光秀役。ここでも村上弘明さんは、従来のイメージと違う光秀を演じられた。信長、秀吉の時代には欠かせない明智光秀という役柄ではなく、等身大の明智光秀というか、当時の私は、村上版光秀と奥方の物語を純愛、ととらえて観ていた記憶がある。

 

 ついこの間、HULUで鍛冶屋の政@村上弘明さんが活躍する映画版「必殺!」を楽しんだ。当時の酒井法子さんの不慣れな演技に付き合い、彼女に報われない恋心を描く政を、丹念に演じておられた。その関係で、ネットで調べ物をしていたら、京本政樹さんのラジオ番組に、村上弘明さんが出ておられた時のレビューに出会って楽しく読ませていただいた。楽しいおしゃべりが聞こえてきそうな内容である。だが、「必殺!」というエンターテイメントな時代劇だったけど、山田五十鈴さんや藤田まことさんに出会われ、いっぱい経験されたのが、ヒシヒシと伝わってくる。

 

 ぶっちゃけた話、村上版春獄の評判は意外だった。でも人生ってそういうもんなのだ。今までいろんなことをやってきた成果が突然、どんぶらこってな感じでやってくるときがある。ちょっくら、元気をもらった気分である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「サイク/名探偵はサイキック」息のあった漫才コンビを見る愉しみと似ている。

 ショーンとガスの二人組、コンビ名は「サイク」である。(←嘘)

 Psych - Season 2 Gag Reel - YouTube

 

 「サイク〜名探偵はサイキック」は、海外ドラマではある。よーく聞いてみると、主人公のショーンは、THE MENTALIST / メンタリストの捜査ファイルのパトリック・ジェーンと能力が一緒なのである。並外れた観察眼と推理力!ただ、パトリック・ジェーンは、サイキックなどいない、という立場で、サイキックかと思うような答えを導き出し周囲を驚嘆させるが、「サイク」のショーン・スペンサーは違う。

 

 ・推理を披露するときは、必ずといってもいいほど、こめかみに手をあてる。

 ・パッと閃いた!という顔をする。←犯人がわかっているにも関わらず。

 (同時に、親友ガス、および、レギュラー陣はあきれ顔をする)

 ・「視えた!」「霊が教えてくれた!」「聴こえてくる声がある!」などの前置き。

 ・ベッタベタの、オーバーアクション付きの推理を披露。

 

 登場人物の刑事とガスの会話にこんな感じのがある。

刑事「ショーンには、犯人がわかったのか」

ガス「そうみたいですね」

(ショーン、こめかみに手をあてはじめている)

刑事「あれをやらないと、推理を話せないのか?」

ガス「そうみたいですね」

 

 ガスはどんなときも、最後にはショーンを肯定する。ショーンがサイキックっぽくあることないこと話始めれば、それに話を合わせてあげるし、バレれば、一緒に逃げるし、呆れていても最後までそれにつきあう。謝るときは、一緒に謝り、泥までかぶらされてしまうこともしばしば。

 そんなガスをショーンは執拗に必要とする。ショーンが能力を発揮すれば、ガスがいる必要がないし、ガスもそれを知っているのに、いつだってショーンにはガスに側にいて欲しいと思っている。

 

 「オードリー」という漫才コンビが認知度を高めた「M-1グランプリ」。ツッコミ若林正恭さんのブログ(休止中?)に、準優勝となった漫才のことが書かれていた覚えがある。失敗する春日さんのボケを、若林さんがナチュラルに笑いに変えていたのは、普段の舞台で、普通にあることだったから、ということらしい。緊張で失敗したからでもなく、大舞台を切り抜けたからではなく。

 若林さんが、春日さんのフォローに慣れていることもあるが、春日さんも若林さんがフォローするのをよく知っているはずなのだ。想定できることなら、次の対応もしやすい、受け取りやすい球の投げ合いのようなものである。

 アドレナリン満開の大舞台を成功させたのは、お互いを理解しあっている息のあった関係から来ているような気がしている。

 

 「サイク」のお二人、ショーンとガス、始終一緒に行動している。人並み外れた能力を持つショーンは、一人ででもやっていけるのに、ガスをいつも追い回している。ガスはガスで、ショーンにつきあってしまっている。

 

 お互い、わかっていて一緒にいる。

 息のあった漫才コンビのように。そして息のあった漫才は見ているだけで、笑顔になり幸せな気分にしてくれるのである。

 

 

(おまけ)「サイク」プロモーションビデオ

その1  シンプル・マインズの「ドント・ユー」を再現

その2 ダリル・ホール&ジョン・オーツの「プライベート・アイズ」を再現

 

 

 

「自主退学」「終わりに見た街」「リラックス」未来を見通した3つのTVドラマ

 過去に放送されたTVドラマの話である。大げさじゃないほど、スゴい俳優さんがでているのである。あの大物脚本家さんのもある。賞をとった作品もある。「終わりに見た街」「リラックス」は、放送ライブラリーで視聴可能である。

  たまたま、私個人が未だに記憶している作品。だが、今のリアルな社会問題がスッポリ当てはまるような気がしてる。

 

「自主退学」主演:タモリ 

 自主退学の定義は、生徒本人や保護者が学校を辞めること。学校側が関知することのない退学のはずが、学校側が問題のある生徒が学校を辞めるように、いわば、お膳立てする退学として、このドラマでは「自主退学」が用いられる。さまざまな二元論的対立があるが、答え何ぞでるはずもない。学校現場の問題は、外からでは見えないものも多いのだ(個人的には私は少しだけわかるポジションにいる)。ただ、キレイで美しく見えるもののがあったとしても、その自浄のために悲劇があった可能性は含んでおくべきだと思う。

●●●自主退学(以前、私が書いたこの作品に関する文章です)

高校「退学」と子どもの学習権(憲法26条)│第7回│マガジン9

 

 

「終わりに見た街」主演:細川俊之

 山田太一原作脚本のドラマ。後に中井貴一主演でリメイク。初見のときは、ただただ、物語に引き込まれただけだったけど、前述の放送ライブラリーで再度見直したとき、「普通の人」がタイムトラベルをして人類の未来とその未来に至った原因を見ちゃう話だと自分なりに理解した。「普通の人」が見る、ってのがキモなのだ。細川版のラストシーンは、中井版に比べて、ビジュアルのインパクトが強い(苦手な方は無理かもしれない)。終わりになる前に、やらないといけないことがあることを、伝えるための作品だと思う。こうなってはヤバいので、今のうちに、だ。

広島平和記念資料館

NHK 平和アーカイブス

 

 

 

「リラックス〜松原克己の日常生活」主演:江守徹

 とても評価の高い作品と知ったのは後から。心が壊れるってのはこういうことなのかと、、ドキュメンタリー手法もあってか、伝わりやすい作品。また、個人的には、「リラックス」というのも「ストレス」につながる可能性があることも感じた。どやってリラックスしたら・・・・と、悩まなければならない無限のスパイラル。このドラマが放送された時よりも、現代はもっと複雑怪奇になり、逆に、人の心は可笑しな耐性を帯びてきている気がする。

みんなのメンタルヘルス|厚生労働省

ストレスマウンテン

(ストレス蓄積度がわかるwebサービス。神戸市こころの健康センター)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

愛情の色は何色?〜形而上学的で不可知論的なもの

 形而上学とは、んとに、小難しい学問だ。

 学問って真に深めようとすると手を出しにくくなる。でも、思い切って自分がわかりやすい他ジャンルに横断していいものだと思うのだ。実学として応用してもいいし、芸術にも生かされていいとかね。要は、もっと、自由であればいい。ただ、思索し深め、研究する人への敬意だけは忘れずに。

 

 高橋優さんというシンガーソングライターさんがいる。PVにも歌詞を取り入れることが多い方である。そんなこんなで、たくさん読んでいるうちに、はたと気づいたことがあった。

 社会学的であり形而上学的、というか。

 一概に言えることじゃないけれでも。

 例えば、「発明品」という歌詞は、孤独、というものを何度も分解している節がある。孤独に陥るまでのプロセスが幾つか提示される。恋愛をして別れた後の孤独、就職して辞めた後の孤独。いずれも身近に起こることだ。社会とつながっていたいから、社会とつながれなくなったときに起こる、現代の孤独。プカプカと生まれる泡のような孤独。

 孤独というのは、形があるわけではない。いろんな側面から考えることで存在を確認できたりもする。そうだ、それが孤独。だが確認しなければ、孤独であるかどうかもわからない、それこそ、存在さえ出来ないかもしれない。

 

 もうすぐ結婚をする!という友人と会ったとき、ほぼ100%思うことがあった。二人の間は、メッチャえー感じやなあ〜、て。

 それを「愛」って呼んでもいいのかもだ。で、「感じる」わけだけど、色とか、形とかは説明できなかったりする。でも、あるのだ、「愛」。男性の彼女をみる視線は優しいなあ〜とか、女性の彼をみる視線は、穏やかなだなあ、とか。そんな事柄から推測されるといったところか。分析さえ、照れくさいけど、お幸せに、と思えたりする。

 

 高橋優さんの歌を最後にもうひとつ。「CANDY」という歌。この歌の中では、「愛の味」と「友情の形」を問うている。この歌の主人公は、それを問いながら彼のまだ小さな社会と戦っている。戦わなければならない立場にたって、やっと、問うことができるようになるなんて、まるで、事故が起きなければ危険な道路の消えかけた横断歩道が塗り替えられない実情と似ている気がする。

 

 冒頭で、形而上学について、わざと複数の方の言葉が書かれているページをリンクさせていただいた。形や味がなく、認識できないものを、不可知論として考えないことも有りだし、個人差や、時と場合、という認識だって自由だと思う。でも、存在しているものに、そのまま身を委ねるのではなくて、ちと、時間をおいて、愛の味や、友情の形を意識してみることで、いろんなことがわかる気がするのだ。

 

 一番身近なのは、選挙かもしれないな、と、震災があってから考えてたりする。誰に入れていいかわかんなくなっている現状で、自分が納得する答えを導きだす方法が、存在を探求するこの学問に隠れているような気がしている。