水がある限り金魚は泳ぐ

本と読書と映画とドラマ、そして雑文。

「ローン・レンジャー」なるほど、史実を疑うための映画なのである。

 冒頭からローン・レンジャーとトントが銀行強盗をおっばじめる。正義の味方がなぜそんなことを?となる謎掛けは、映画慣れしていたら、「たぶん、理由があるんだろーうなー」くらいで、引っかかる程の伏線ではなかった。ディズニーだから子供向けの伏線だなあーとスルーする。ある意味、正解だろうが、そうでもなかったりするのは、その後の展開で、とある監督の名前が浮かんだからである。

 

 ゴア・ヴァービンスキー監督作品!

  「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズとかぶる登場人物の演出だなあ、と感じたときは監督をチェックして観てなかったことを自己確認。でも、ぜってえ、ゴア監督だあ、と自己肯定するしかなかった映画展開。案の定、間違ってなかったのだ。

  銀行強盗をおっぱじめる場面は、もはや無法者をなったマスクをしたローン・レンジャーである。銃を嫌い、文明社会の常識的な判断を信じ続けたジョン・リードではない。コマンチ、トントには、のちに同じ種族の族長クラスの老人たちから語られる幼い頃の哀しい物語があり、コマンチであるが、コマンチとして行動しない存在になった。

 「パイレーツ・オブ・カリビアン」の登場人物をおさらいしてみた。ウィル・ターナーとエリザベス・スワンは夫婦になる。だがウィルは、10年に1度しか陸に上がれない船の船長で、エリザベスも良家の娘さんでありながら後に海賊になる。夫婦であり、家族であり、海賊で、二人ともジャック・スパロウ船長には、絆は感じながらも、好きでもあり、嫌いでもある振る舞いを見せる。そのジャック・スパロウ船長は、映画を観たたくさんの方が感じたように、海賊ではあるが、海賊の中でも唯一無二の存在である。

 

 両者の映画の登場人物、どっちもすっきり割り切ってないのである。だがすっきりわりきってないところが興味深い。

 

 「ローン・レンジャー」の他の登場人物もすっきり割り切れない。

 死に際にジョンの兄、ダン・リードが言う通り、ダンの妻レベッカは、弟ジョンへの愛情を抱いている。だが、ダンが生きている間は、レベッカとジョンは一線を越えることんあい間柄のようだった。

 私が個人的に興味深かったのは、騎兵隊の隊長の存在である。正義をかざしながらも、私欲で物事を決断し、部下には正義を唱え続ける。この騎兵隊を、ジョン・リードは当初、自分を助けてくれると信じきっていたようだった。

 ブッチ・キャヴェンディッシュは、コマンチを偽装して、コマンチをアメリカ側の悪人に仕立て上げた。そして兄のレイサム・コールの計画を手助けする。

 物語の核は、レイサム・コールの大陸横断鉄道にある。

 大陸横断鉄道が多くの人にもたらした利益とさまざまな発展は、私たちが生きる現代社会を構成する礎のひとつである。その礎には、もとからそこに暮らしていた人が、鉄道の敷設によって排除された歴史があり、その歴史は、望んで受け入れられてものもあれば、そうでないものも少なくはないのである。

 ややもすれば埋もれそうになる現代に至るまでの長い道のり。史実ではそれらを多面的に説明できないのだ。だが、映画は、さまざまな側面から説明してくれる。油まみれの鉄道を敷設する男達、銀を掘り出すのに雇われる中国人、死を覚悟して戦うコマンチの面々。などなど。

 

 史実の通りだと、主人公たちは正義に属さないといけない。その正義は現代をつくったものに基づいないといけない、でないと、現代が「悪」になってしまうからだ。だが正義の旗なんてのは脆弱。ジョン・リードの銃をもたない信念はもろくも崩れ去り、「パイレーツ・オブ・カリビアン」でも、海賊じゃなかった二人の登場人物は海賊になっている。彼らは、現代の礎となったものを守るための正義には属さず、自分が信じる方へと動いただけ。

 私たちの生きる現代社会は、正義に守られているわけではないのである。悪にまみれている部分もあれば、悪に生かされている部分もある。偽善という正義を信じて疑ってないことに気づいてないだけかもしれない。

 

 正義か悪かを二元論で問えれば楽ちん。でもそうじゃないからややこしくなる。

 トントが時々、細かいことは気にするな、という顔をするのが興味深かった。その表情には、「そんなことは気にせず、自分で決めろよ」みたいな問いかけがある気がする。

 

 

 ウィリアム・テル序曲がかかれば、ただただ、娯楽の世界へ連れていってくれる。実は、その娯楽が楽しすぎて、それまでの道のりが長く感じられたりする。映画としては、率直な感想であるが、それほど、素晴らしいクライマックスだとも言える。

 でもそこにいくまでの道のりこそ、ジョニー・デップ主演のこの作品の唯一無二なところであると思うのだ。よく考えてみれば、典型的な正義の方が、幻想なのかもしれない。