水がある限り金魚は泳ぐ

本と読書と映画とドラマ、そして雑文。

どの道にも茨があるのだ、当たり前ながら。

 二つに一つ。選択することは非常によくある。選択の基準として非常にノーマルなのは、合理性だと思う。無駄がなく有用で有益。それも比較的短気な利益である。

 または後悔がないように、「今」やれることをやる。明日になったら1年後、2年後10年後には出来なくなることをやる。それもまた選択の基準としてはスタンダードな方だろう。

 

 あんまりやらない選択、しかも、そんな現場にいたくない選択もある。

 韓国のドラマ「武神」では、高麗に蒙古の大群が押し寄せてくて長きに渡り戦争を繰り返す。高麗側の意見は真っ二つ。抵抗か、降伏か。もちろん、どちらにも納得できる理由がある。長い徹底抗戦に加え、飢饉などの自然災害で食べるものもなく死んでいく人々を見かねて戦争を止めるために降伏を選ぶ派閥と、降伏すれば、当時の蒙古の髪型である弁髪にすることや、蒙古のために兵馬や兵糧の提供も課せられる。そのことによって生命的な死だけでなく、心も死んでしまうのだと、絶対に降伏しないことを前提に抗戦しながら外交を続けるという派閥に別れていた。

 実際に人が死んでいるのだ、と叫ぶ派閥。

 蒙古への兵馬や兵糧の提供でも人が死んでいく。ならば自国の維持のために苦しみに耐え抗戦しようと説く派閥。

 諦めればそこで終わりと言わんばかりに、高麗側の勇猛な武将が蒙古の大群と互角以上の戦いをすることもあれば、蒙古の姫と結婚した高麗の王子は、秘密裏に高麗の国王に条件闘争のために動くと密書を送っていた。

 抵抗によってあえなく散った武将もいれば、すぐに降伏し大国の一員として高麗人を中傷する登場人物もいる。

 

 道は無限大。

 だが、どの道も案外、チクチクとささる茨の道なのだ。

主人公だけでなく、さまざまな人々が自分の選んだ道の負の側面に苦渋の表情が多々見せていた。さまざまな登場人物が時に苦渋の表情を浮かべる。進めど進めど、茨はなくならない。

 

 だが、茨道を歩いていく方法も無限大なのだ。

 

 大きな鎌を持ち、手動でトゲを取り除くこともあれば、大きな乗り物を作ってもいい。痛みに耐えるのも、傷を治療しながら少しづつ歩くこともできる。

 それは、選択をするときの、選択基準なのだと思う。

 選択基準は、安寧とともに、負担を生み出す。合理的な考えには、夢や希望や、あいまいな信条が損なわれ、時に後悔を生み出す。

 

 当たり前なのだ。

 どうにもならないことはある。

 けれども、まだ道がある。

 

 「舟を編む」という映画でオダギリジョー演じる西岡は、辞書編纂の仕事がのってきた矢先に起こったトラブルを解決するために他部署に飛ばされる。だがその部署は西岡の能力からして当然の配属でもある。だがその部署で西岡は、辞書を完成させ市場に乗せるために誰よりも奮戦するのである。主人公は馬締(まじめ)という編纂に人生をかけた青年だが、西岡なくして辞書は市場にはのらなかったかもしれない。西岡と馬締は違う道を進みながら、目標を達成し、約束もしてなかったのに、同じ場所で邂逅を果たす。

 

 子供には純粋さがあり、大人になればなくなっていくもののように言われる。けれど傷つきながらも守り通したものが「純粋」でなくて何なんだろう。守り通すためにつかった打算も狡さも後悔も乗り越えて「純粋」を守りきった先達は、物語の外、現実の世界でもいっぱい居ると思う。