水がある限り金魚は泳ぐ

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惜しみなく伝え、それを楽しもうっと!〜特定秘密保護法の時代に

 どんなことでも、小さな一歩から「なし崩し」に出来る可能性はある、と私は信じている。正攻法でぶつかっても崩れないのなら、脇に回る。なんてね。

 

 このごろの話なら、新聞の1面の見出しで「特定秘密保護法」が成立した文字が大きく躍っていると、一人の力では代え難い時代の流れが確かにあるのを感じたりはする。私個人なんて、たいしたことないかもだが、そういう無力感の集合体が、選挙において投票率を下げたりするのだし、心理的に個人個人に無力感を感じさせることで、コントロールしやすくなると考える勢力があるのでは?などと、勘繰ってみたいする。

 

 

 ちなみに。同じ職業を長くやっていると、ときどき「教える側」になることがある。たいしたことはなくても、教えるものは、それなりに、お金を生む。自分だけの知識や技術を持っていることによって、確保できる地位もあるだろう。経験や学習、努力によって得たものは、当然守られるべきだし、門外不出としていくこともまた、間違ったことではないのである。ということで、秘密は、ある程度は、意味はあるのだろうと思う。

 その門外不出が、正当な後継者によって次がれ、素晴らしい歴史が紡がれれば伝統にもなりうる。だが、どこかの悪の秘密結社がそれを奪わんとしたら。そそ、使うものによって全てのものの価値は変化するのだ。日本が好きだった、というアインシュタインは、日本への原爆投下に反対していた、という話が伝わってきたりする。

 

 それでもだ。自分が持っている「力」を「伝える」のは、とても楽しいときがある。伝える相手がスポンジが水を吸うように、吸収してくれてるような感じとか。みなぎるようなやる気とか、敬意や感謝を見せてくれたりもそう。

 何よりも、自分の「力」を、受け取る側が大きくしてくれる、新しいものに変えてくれる予感がしたら、すごく楽しくなってくる。言葉で言ったら陳腐だが、シンプルに会話が楽しくなる感覚の一形態でも良いだろう。

 

 そんなコミュニケーションの一形態こそが、大きな力をなし崩しにする「力」になりうる可能性を秘めていると思うのだ。