水がある限り金魚は泳ぐ

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責任を上手に押しつけないスキル

 仕事でこっぴどい失敗をして、儀式だと言われつつも、お歴々が集まった場所でつるし上げ(関係者集まって公開でミスについて話し合う会議)をくらい、ボーナスを下げられた記憶は、思いの外、よく役立っている。

※このつるし上げという表現は、自分への戒めとしてつかってます。

 で、何に役に立っているかというと「こっぴどい失敗をした人への励まし」である。

 「私もやったやった〜」「みんなが通り過ぎる道やから気にするな」的な励ましは結構、効くようである。

 

 つるし上げ当日。上司とともに部屋に入り、仕事で、ミスをしないための段取りは全部こなしていることを話ながら、それでも足りなかったからミスが起きたことは認め謝罪した。

 ミスを起こさないための自己チェックシステムはおろそかにしてはいなかった。が、私事のバタバタと、仕事の内容がリンクしていたことで失敗してしまった。キチンと切り分けて仕事しないといけないのに、集中してなかったのだ。

 

 ところが、こういう大きなミスが職場で起こったとき、当事者がつるし上げの場に行かせてもらえない場合があるのを、後に知った。

 どうやら当事者が行けば余計にこじれる、と判断された場合のようである。

 普通に考えれば、当事者の謝罪が一番事を、丸く収められる。だからこそ失敗すれば余計に相手の感情を害する可能性がある。また、その当事者のメンタルが耐えれないと判断した場合も、当事者を表に出すのは憚られるだろう。きっと私はそのどちらもクリアできると踏まれたのだ。

 

 ソンな役回りという見方があるだろうが、つるし上げに出席する人を励ますには「切り抜けられると思われてるから謝罪させられるんだよ」と言ってみたりする。

 その根拠みたいなエピソード。

 仕事の失敗を個別に謝って回ってた人がいた。その場にいた、2つの別会社の管理職の人たちが口を揃えてコッソリ言っていた。

 「子供じゃないんだから」

 でも、普通謝るよ、みたいな気持ちで聞き耳立てても、管理職さんたちは自分たちの見解が共通していることで納得しあってる。どうやら謝ったら終わりじゃないぞ、みたいなニュアンスだった。大きな失敗んときは、謝りにいくのも、上司や社長とタイミング見計らってやんなきゃいけないのかも、という気がした。

 確かに、しっかりした子供なら、親も当事者として一緒に謝りに行こうというな、と自分がミスしたときのきつかった記憶とダブらせる。ただし、私の場合、この親にあたる上司や社長がほんとに良い方だった、という但し書きがあるんだけどね。だからつるし上げを食らったときも、しっかり支えてくださっていた。

 

 迷惑をかけた金額も知っている。同僚に「ことある事に言われるよん」とアドバイスもうけた。ボーナスを引かれたことも、受け入れる範囲内。その告知があったとき、こんな風に言われた。

「他の人の気持ちの部分もあるから、金額、引いたからな」

 こういうのは戒めではないのだ。私へのペナルティは私が会社で今まで通り働くためのものでもある。実際、この件で辛い思いをした記憶は一切ない。

 

 大きなトラブルに対処するための当時の上司達のスキルは、今思えば、舌を巻く。現場の関係者は、あなただけの責任じゃない、と何度も言ってくれたし、始末書を書かされたとき、見本として「自分の始末書控え」をコピーしてくださったというエピソードもある。ちなみにその方は、とっても仕事が出来る方だった。

 

 責任を部下に押しつけず、自分だけが背負い込まず、というのはなかなか難しい。だが随所に相手をみながら、マネージメントをしていた上司のことが、年齢を得てからの方がわかるような気がする。