水がある限り金魚は泳ぐ

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「スタートレック イントゥダークネス」揺るがぬ意志が受け継がれているのが嬉しい

 クライマックスでエンタープライズ号がピンチに陥る。

 艦長代理を務めるスポックは、ブリッジのクルーにも、待避を命じる。自分は、船と運命をともにすべく、座席ベルトを装着した。だが、きっぱりと、スールーはその命令を拒否する。拙い英語力だが私にも聞こえた。「respect」の言葉があった。上官に敬意を表しながらも命令に逆らい、自分も座席ベルトを装着するスールーと、それに倣う他のブリッジクルー達。もうスポックは何も言わなかった。

 その頃カークも命がけで船とクルーを救おうとしていた。

 

 信頼にたる上官と横並びの意識を持つクルー達。自分の意志で最善を探し、判断し生きている。だからいつも、揺るがない。

 

 これが、「スタートレック」なのである。そう、思い、私は嬉しくなった。

 

 機関主任スコットが「正体不明の魚雷」の乗船を拒否し、船を下りることになるカークとのやりとり。若い船長の目は、「命令」だと魚雷の乗船を許可するように諭すが、頑固な機関主任が首を縦に振るはずはないと思っている。カークもスコットも半ばお互いをわかっていて譲らないのである。

 後にカークはスコットに大仕事を頼むことになるが、船を下りたクルーに仕事を頼むカークと、それを渋々な顔をして受けるスコットの表情が興味深い。

 

 カークは策士である。実は、テレビ版の「スタートレック」でカーンがカークを評して言っていた言葉でもある。総じて「スタートレック」シリーズの艦長たちは、余程のことがない限り、殺し合いを避け腹の探り合い、すなわち「外交」をする。

 スポックは、カークにお小言を言い続ける。バルカン人のスポックが非論理的なカークにお小言をいうのは当然のことだ。だが、役割として必要とされているから、と認識しているからでもある。

 激しい感情を持つカークは自分を知っていて、自分のブレーキ弁として、そのままのスポックを受け入れる。

 

 策士であることは、「人たらし」だな、とも思う。

 だがその「人たらし」のテクニックは、相手をそのまま受容してこそだ。権力や欲望で、押しつけることはしない。

 スコット機関主任の代わりを、気弱な天才、チェコフに出来るはずはない。だがチェコフに全部任せている。だからこそ、ピンチのときにも機関室にいた彼は、カークとスコットの命を救うが、そのときの顔がどこか誇らしげだ。

 

 それに引き替え、カーンは取引を持ちかける。

 地球では、病気の子供を持つ父親に。それにカークやスポックにも。おそらくマーカス提督とも。

 

 カーンは、自分の持ちかけた取引を相手が受けると想定して持ちかける。取引の内容は、悪魔が願いを叶えてやるから魂を売れ、というのと似ている。だが、その取引を、カークは否定し、スポックはウラをかいた。

 

 カーンはカークに、エンタープライズに、勝てない。少なくとも簡単には。

 

 テレビシリーズ「スタートレック」のリブート作品である。だが、2作目となるこの作品で、登場人物は「らしさ」を主張しだした。その「らしさ」はテレビシリーズに通ずる「らしさ」である。つまりは、彼らの意志は揺るぎなく、それこそが遙かに強大な敵に立ち向かい、未知なるフロンティアを生き抜く力なのである。

 

 ベネディクト・カンバーバッチ氏が目立つ作品である。今回は、まだどこか、共感させる設定があるカーンだったが、スポック@ニモイ氏の警告通りな冷酷なカーンを、カンパーパッチ氏で正直見てみたいと思った。スポック@クイント氏との遺恨も残ったことだし。いや、それ以上に、カーンという優生種が作りたいと思うおそらくは自分たちが中心となった世界を、カンバーバッチ氏がそう創出するか、気になったりする。

 

 映画鑑賞後に、テレビシリーズ「スタートレック」でカーン(おそらく初出)を観た。カーンに歓待の場をもうけながら、カーンから情報を引き出そうとするカークは、スポックに厳しい質問をさせ、自分は擁護の立場をとる。それをカーンが見破り、「船長は策士」と指摘する。指摘できるカーンは天性のリーダーであり、この回の話の中には、ナポレオンなど歴史に名を残したリーダーが要素として絡んでくる。かつてナポレオンが想像した世界、歴史上のリーダーが想像した世界があれば、カーンにもカーンが作りたいと願う世界があることだろう。

 

 映画で覧たエンタープライズクルーの揺るぎない意志は、私の記憶の中にあったものだった。だが、見直したテレビ版でも、カーンはやはりエンタープライズクルーに取引を持ちかけていたが断固拒否するクルー達がいた。

 

 やっぱりな、嬉しいな、と内心、ほくそ笑んでしまった。