水がある限り金魚は泳ぐ

本と読書と映画とドラマ、そして雑文。

「丕緒の鳥」アナログの思考を踏みしめ、未来へ挑め。

 登場人物たちの心が逡巡に逡巡を重ねている。簡単に決めればラクなのに、簡単に決められず、時には他人に委ね、他人に甘え、他人にぶつかり、それら他人から受けたものが全部、自分に返ってきて、再び、悩む。

 

 小説を読んでいると、ときどき、人と人は通じ合える気がしてくる。特に暖かい物語の場合はそうだ。「青条の蘭」の描く主人公の友は、その通りの人柄で、気が合わないと思っていた相手への気持ちの解け方も、人と人が通じ合うさまを思い浮かべる。また、主人公が困難の旅の先で出会う人々の心もそう。

 冒頭の物語、「丕緒の鳥」でも、主人公の気持ちが「十二国記」シリーズの象徴的存在の新しき王様に通じる。

 

 現実はどうだろうか。人と人は通じているだろうか。

 

 「落照の獄」に出てくる犯罪者の気持ちを主人公は理解したような気がする。理解したからこその結果を出したような気がする。そして「風信」では主人公の少女が、自分のできることを一生懸命する人々を理解する。

 

 いや、「落照の獄」「風信」の主人公は、心が通じ合ったわけではない。そういう人々がいる、と認めたという方が良いかもしれない。幼子を必然として殺害した男の「生」、市井の苦しみとは別次元で出来ることをする「生」、前者は、人を殺すことに躊躇しない「生」は消さなければ有り続けるものだと理解し、後者は、在るものの尊さを受け入れる。

 

 ぶつかってぶつかってぶつかって。

 ぶつかっているのは、主人公ひとりひとりの心。

 

 それは極めてアナログ的な思考ではないだろうか。お金のため、地位のため、欲望のため割り切って利のある方へ判断をするのは合理的で、進歩もはやい。それとは逆方向の思考のプロセスがこの物語の主人公たちにはある。

 

 答えの出ない現実にいるのは、この物語を読む読者の方である。通じ合わない孤独を身をもって知っているのが読者である。だからこそ、アナログ思考を繰り返し、困難に傷つき、希望を忘れては、取り戻す姿がある小説は、深く心にしみるのだ。

 

 「十二国記」シリーズの世界を深める短編集だったと思う。