ペットボトルのエリマキトカゲが消えた日。
いつも飲む500mlペットボトルをコンビニからとるとき、なんだか邪魔なのが増えてた。キャップあたりに巻き付いている、まるでエリマキトカゲのエリみたいな広告である。
かわいいふっくらした女の子がTVCMに起用されていて、日本学校保健会から推薦になってる奴。そんなのがつく前から、私はけっこう好きだった。
売れてるからか、コンビニのデカい冷蔵庫の3列を占有。
エリマキトカゲのエリのように全部の商品に、広告がつけられていた。窮屈そう。
ペットボトルの意匠の凸なハートも台無しである。
ペットボトルは、高さの半分から上、キャップのすぐ下あたりを持つことが多いと私は思っている。にも関わらず、肝心のその部分が隠れていると、取り出しにくい。その上、飲む前に、エリマキトカゲのエリの広告を外さないといけないわけである。
と、ここまでは、細かい愚痴とも言える。
だが、ある日を境に、3列あった商品の1列から、エリマキトカゲのエリは消えていた。
他にもきっと、同じことを考えていた人がいるのだ。小さなことだけど、ペットボトルのエリマキトカゲが、1列分、消えた。
このくらいのこと、なのかも知れない。されど、世の中は動くのだ。
大丈夫?と困惑しながら笑い続けた。〜THE MANZAI 2013
思わず画面の前で手を叩いて笑いながら漫才を見るのは本当に久しぶりだった。
手を叩く必要なんてないんだけどね。ただ、吹き出して、目を細めて、勢いよく手を叩いたとき、画面の中でも、会場が沸いていて、演じる漫才師さんは上機嫌の顔をしている、これって、幸せな時間だと認識すべきものだと思うのだ。当り前の話だが、幸せは簡単に得られるものではない。だから今年のTHE MANZAI 2013のファイナルには感謝である。おつかれさま、ありがとう。
スポーツの最高の試合を観戦したときのような。
幸せな時間だった。息詰るスポーツの試合をリアルタイムで観戦したときのような感じに似ている。その試合は二度と再現されない。その1分1秒を共有している時に、無駄な御託はいらなくなるのだ。だからこそ、出演者一人一人に対する感謝からまず始めないといけないと思うのだ。
漫才を知る者はネタの変化に気付きながら見ていた。
ふと気付いた。THE MANZAI 2013の審査員、および、北野武氏がネタの選択にたびたび言及していたと。M-1ぐらんぷり、の時にも見られたが、そのときは、評価の一形態でしかなかった。だが、今回は出場する側が拮抗していたこともあり、「ネタの選択」の差が勝敗に関わってくる、または、その差こそが、技量の差がない中での数少ない選択肢という指摘にさえ思った。
自分たちのやりたいことをやるか。
勝ちやすいネタ、受け入れやすいネタをやすか。
ファイナリストたちの話芸
漫才も他に漏れず、才能と努力によって一定のレベルまで引き上げられるものだろう。よく通る声も滑舌も、そして表現力も一朝一夕ではないだろう。全ての職業にも言えるように、ある一定のレベルまでは、多くの人が到達できるものだ。今回のTHE MANZAI 2013も、そのレベルを超えた漫才師さんが集まっていた。
だからこそ、自問自答しただろう。
自分たちのやりたいことをやるか。
勝ちやすいネタ、受け入れやすいネタをやるか。
そういえば、最大の賞品はメディア露出だった。
だが、果たして、技量の差が拮抗していたなら、ネタの差が評価につながるのだろうか。勝ちやすいネタをすることが正しいのだろうか。
審査員や、北野武氏は今回のTHE MANZAI 2013に疑問を呈して、「ネタの選択」ご言及している気がする。ましてやこの番組の最大の賞品は、テレビ出演である。商業ベースに乗れない芸人さんを選抜できるはずがない。いや、選抜されるはずはない、という考えは、演じる側にも常に頭に浮かんでいたことだろう。
それは仕方がないことだ。
それでも先の先を超えて行こうという試みが見えた。
今回の「ウーマンラッシュアワー」の漫才はTHE MANZAI 2013という番組をパロっているようにも見えた。お笑いが好き、みんなの笑顔が好きといいながら、相方に、有名になりたい、もてたい、と言わせる台本の仕組みの中に、お笑いが好き、だけでは成立しない現実に対して、お笑いが好きであるものたちが反撃しているようにも見えた。
今回の「NONSTYLE」の漫才に、いくらボケが多いと言われてもボケ続け、漫才を楽しむ姿を見た。
しかしこの二組こそが、突出した勝ちにいく漫才だった。私は困惑しながら笑っていたと思う。
だが、また気付く。この番組の趣旨を彼らは乗り越えようとしていた。
ネタをつくり、演じ、演出をかねた漫才という芸
「THE MANZAI 2013」を見ながら、だんだん、「ウーマンラッシュアワー」と「NONSTYLE」の一騎打ちを見たくなっていた。
「NONSTYLE」は決勝よりは勢いを失したが十分すぎる話芸に吹き出す。審査員の一人が彼らを進化したと言ったが、まさにそう。井上はマイペースだが、石田がだんだん楽しくなっているようだ。もっと笑わせたいと、いう意気込みが漫才を豊かにする。自分たちの持っているもので戦おうとする意気込みがあった。
「千鳥」の二人の顔が、関西にいるときに近づいてきた。時折見せる表情がやわらかい。勝負する「千鳥」ではないが、皆に愛される「千鳥」になっている。
そして「ウーマンラッシュアワー」。
村本のキャラ全開が石田の激しいボケに重なる。井上が安定したツッコミをする。表情もよく受け止めている。だが、村本に翻弄されるパラダイスは、漫才の立ち位置で、表情を豊かに変え、のけぞり、あらん限りのパフォーマンスを見せた。演出が強い。映画と同じように、俳優の演技だけではなく、演出の上手さも作品の要素ではある。そのわずかな違いが勝利を呼び込んだ気がする。
自問自答しながらも選択するのは自分。
漫才を知る審査員たちが見ていたように、賞を狙う漫才師さんたちの漫才がかつてと変容しているのだろう。リラックスした「千鳥」が見せてくれた芸の楽しさは、他の二組よりも漫才らしいとも思う。
でもその実、もっと先があることを、見せてくれる大会にも思えた。
惜しみなく伝え、それを楽しもうっと!〜特定秘密保護法の時代に
どんなことでも、小さな一歩から「なし崩し」に出来る可能性はある、と私は信じている。正攻法でぶつかっても崩れないのなら、脇に回る。なんてね。
このごろの話なら、新聞の1面の見出しで「特定秘密保護法」が成立した文字が大きく躍っていると、一人の力では代え難い時代の流れが確かにあるのを感じたりはする。私個人なんて、たいしたことないかもだが、そういう無力感の集合体が、選挙において投票率を下げたりするのだし、心理的に個人個人に無力感を感じさせることで、コントロールしやすくなると考える勢力があるのでは?などと、勘繰ってみたいする。
ちなみに。同じ職業を長くやっていると、ときどき「教える側」になることがある。たいしたことはなくても、教えるものは、それなりに、お金を生む。自分だけの知識や技術を持っていることによって、確保できる地位もあるだろう。経験や学習、努力によって得たものは、当然守られるべきだし、門外不出としていくこともまた、間違ったことではないのである。ということで、秘密は、ある程度は、意味はあるのだろうと思う。
その門外不出が、正当な後継者によって次がれ、素晴らしい歴史が紡がれれば伝統にもなりうる。だが、どこかの悪の秘密結社がそれを奪わんとしたら。そそ、使うものによって全てのものの価値は変化するのだ。日本が好きだった、というアインシュタインは、日本への原爆投下に反対していた、という話が伝わってきたりする。
それでもだ。自分が持っている「力」を「伝える」のは、とても楽しいときがある。伝える相手がスポンジが水を吸うように、吸収してくれてるような感じとか。みなぎるようなやる気とか、敬意や感謝を見せてくれたりもそう。
何よりも、自分の「力」を、受け取る側が大きくしてくれる、新しいものに変えてくれる予感がしたら、すごく楽しくなってくる。言葉で言ったら陳腐だが、シンプルに会話が楽しくなる感覚の一形態でも良いだろう。
そんなコミュニケーションの一形態こそが、大きな力をなし崩しにする「力」になりうる可能性を秘めていると思うのだ。
ピンチを乗り切る方法は「丁寧」にやることだと思う。(目前のピンチ以外)
扉をあければ崖っぷち。そういうピンチはそうそうあるもんじゃない。ただし覚悟だけはしておくべきだ。慌てるだろうが、慌てないように。自分にある時間と、手持ちの道具と、周囲の状況を見極め、即断する。
日常ではピンチは予期できることがある。ちょっとした財政難、仕事が忙しい、プライベートで手が足りない、冠婚葬祭、人生の大きな決断、なにやらといったところかな、他にもきっといろいろある。強いて付け加えれば、メンタルでしんどくなりそうなのも、予期できることもある。忙しいときはまだしも、乗り越えたら、ポッカリ穴が空いたり、焦りがでたり、孤独になったり。
現代は、そんなピンチを見越していろんなサービスで癒しを提供したり、短い時間でも出来ることを提供したりと「お金」で解決できることも少なくない。
ただ、根本解決にならないことが多いんだな。
ともかく、一番はひとつひとつ、丁寧に焦らずやること。邪魔くさいと思える小さなことも、よく考えれば5分以内に収まることがある。1本電話する。心を込めて、相手への敬意を込めて「少し待ってください」とお願いしてみる。相手は怒るかもしれない。でも、どうせ遅れる状況ならば、連絡せずに遅れるよりも何倍もマシ。しかも、ロス時間は5分だ。落ち着いたら後で謝りにいくことも考えておきながら。
邪魔くさいと思わずに丁寧に向き合う。
これは、そのひとつひとつが、案外時間が短いことを明解にする。簡単な足し算で、山のように見えた大きな「ピンチ」が案外低いとわかったりする。
逆に丁寧に向き合わないと、山が高くなることがあるのだ。手を抜いたところが問題になり、もう一度やり直し。手を抜かずかかっていた時間の10倍くらい損することは十分ありえる。連絡をしなかったことや、不十分な対応が、相手に不信感を与え、人脈という財産、信頼という、かけがえのないものが失われることもあるのだ。
だから、丁寧に丁寧に。
できれば、ピンチのときほど、笑顔でいたいものだ。
嗚呼、人のココロの面倒くささよ。
私はもともとはっきりした意見が言えない面倒くさい奴である。それを相手に説明するときによく話すエピソードがある。小学校んときのとある授業である。
先生は言った。
「自分の影は、右ですか?左ですか?」
細かいことは当然、覚えてない。この質問、右でも左でももちろん正解。小学生の世界観なら、よく外で遊ぶときの自分の影の向きだけ知っていても当然いい。
だが私はこんとき、授業をぶちこわした。
「どっちも〜」
でも、もしかしたら先生の術中にはまった可能性もあるのだが、何しでかしたのかというと、右にも左にもどちらにも手をあげなかったのある。先生のツッコミに、自分の影が右にあった記憶と左にあった記憶があったことを告げ、頭の中は、夕方に街灯の近くで、全方位に重なりあうように存在した影のことを考えていた。
右でも左でもない。どちらも当てはまる。
それもまた答えである。ダブルバインドという言葉に触れたのは大学生になってから。前に勤めていた職場の同僚に話した時、とてもわかりやすい例文を出してくれた。
「良い上司ってダブルバインドかも〜」。
●仕事を任せてくれる。最後までやらせてくれる。(見守ってくれる)
●無理な残業はしてほしくない。体に無理ないように、家族と過ごしてほしい。
どっちも本気の本気で、部下達に良い経験をさせてくれるが、そのために残業が増えることを気にしてくれていたりする。当時の会社にいた上司がそうだったりしたので、二人で苦笑いしてしまっていた。
ダブルバインドの概念は、矛盾に耐えられず、極端に言葉の深読みや言葉通りにしか考えられないようになる原因の例として説明されたりする。
わかりやすくシンプルであることで、面倒くささは激減する。だが人間の影が、右側か左側しかでなければ、太陽は常に影の反対側にしか出ていないことになる。それは仕組みを知ることを放棄したことになならないか。ただただ進まねばならないときは、シンプルなのは便利だとは思うのだが。
「私は嘘つきである」これは、エピメニデスのパラドックスより。
嘘つきと言われている人がいう嘘は、真実なのか嘘なのか。どちらかを選ぶ必要はない。言葉にはこういう側面があるものだ。
「サイク/名探偵はサイキック」の、主人公ショーンの親友、ガスの家族には興味深い家訓がある。お父さんは失業を隠して嘘をつき、お母さんは借金していて、おねえさんは、ショーンと10年前に寝ていた。家族はガスを含めてんやわんやで、大げんか。でも次の日、ショーンが気兼ねして訪ねれば、友人の家は和やかに家族で食事をしていた。
「仲直りをする努力をする予定」があるなら、言いたいことを言い合って、いくらでもケンカしていいのである。けんかと仲直り、全く逆のベクトルである。それを同時にやれるなら、傷つけあうくらいの大げんか、大いに結構!というところか。
人のココロは本当にややこしいが、乗り越える力があるのだ、きっと。
責任を上手に押しつけないスキル
仕事でこっぴどい失敗をして、儀式だと言われつつも、お歴々が集まった場所でつるし上げ(関係者集まって公開でミスについて話し合う会議)をくらい、ボーナスを下げられた記憶は、思いの外、よく役立っている。
※このつるし上げという表現は、自分への戒めとしてつかってます。
で、何に役に立っているかというと「こっぴどい失敗をした人への励まし」である。
「私もやったやった〜」「みんなが通り過ぎる道やから気にするな」的な励ましは結構、効くようである。
つるし上げ当日。上司とともに部屋に入り、仕事で、ミスをしないための段取りは全部こなしていることを話ながら、それでも足りなかったからミスが起きたことは認め謝罪した。
ミスを起こさないための自己チェックシステムはおろそかにしてはいなかった。が、私事のバタバタと、仕事の内容がリンクしていたことで失敗してしまった。キチンと切り分けて仕事しないといけないのに、集中してなかったのだ。
ところが、こういう大きなミスが職場で起こったとき、当事者がつるし上げの場に行かせてもらえない場合があるのを、後に知った。
どうやら当事者が行けば余計にこじれる、と判断された場合のようである。
普通に考えれば、当事者の謝罪が一番事を、丸く収められる。だからこそ失敗すれば余計に相手の感情を害する可能性がある。また、その当事者のメンタルが耐えれないと判断した場合も、当事者を表に出すのは憚られるだろう。きっと私はそのどちらもクリアできると踏まれたのだ。
ソンな役回りという見方があるだろうが、つるし上げに出席する人を励ますには「切り抜けられると思われてるから謝罪させられるんだよ」と言ってみたりする。
その根拠みたいなエピソード。
仕事の失敗を個別に謝って回ってた人がいた。その場にいた、2つの別会社の管理職の人たちが口を揃えてコッソリ言っていた。
「子供じゃないんだから」
でも、普通謝るよ、みたいな気持ちで聞き耳立てても、管理職さんたちは自分たちの見解が共通していることで納得しあってる。どうやら謝ったら終わりじゃないぞ、みたいなニュアンスだった。大きな失敗んときは、謝りにいくのも、上司や社長とタイミング見計らってやんなきゃいけないのかも、という気がした。
確かに、しっかりした子供なら、親も当事者として一緒に謝りに行こうというな、と自分がミスしたときのきつかった記憶とダブらせる。ただし、私の場合、この親にあたる上司や社長がほんとに良い方だった、という但し書きがあるんだけどね。だからつるし上げを食らったときも、しっかり支えてくださっていた。
迷惑をかけた金額も知っている。同僚に「ことある事に言われるよん」とアドバイスもうけた。ボーナスを引かれたことも、受け入れる範囲内。その告知があったとき、こんな風に言われた。
「他の人の気持ちの部分もあるから、金額、引いたからな」
こういうのは戒めではないのだ。私へのペナルティは私が会社で今まで通り働くためのものでもある。実際、この件で辛い思いをした記憶は一切ない。
大きなトラブルに対処するための当時の上司達のスキルは、今思えば、舌を巻く。現場の関係者は、あなただけの責任じゃない、と何度も言ってくれたし、始末書を書かされたとき、見本として「自分の始末書控え」をコピーしてくださったというエピソードもある。ちなみにその方は、とっても仕事が出来る方だった。
責任を部下に押しつけず、自分だけが背負い込まず、というのはなかなか難しい。だが随所に相手をみながら、マネージメントをしていた上司のことが、年齢を得てからの方がわかるような気がする。
「スタートレック イントゥダークネス」揺るがぬ意志が受け継がれているのが嬉しい
クライマックスでエンタープライズ号がピンチに陥る。
艦長代理を務めるスポックは、ブリッジのクルーにも、待避を命じる。自分は、船と運命をともにすべく、座席ベルトを装着した。だが、きっぱりと、スールーはその命令を拒否する。拙い英語力だが私にも聞こえた。「respect」の言葉があった。上官に敬意を表しながらも命令に逆らい、自分も座席ベルトを装着するスールーと、それに倣う他のブリッジクルー達。もうスポックは何も言わなかった。
その頃カークも命がけで船とクルーを救おうとしていた。
信頼にたる上官と横並びの意識を持つクルー達。自分の意志で最善を探し、判断し生きている。だからいつも、揺るがない。
これが、「スタートレック」なのである。そう、思い、私は嬉しくなった。
機関主任スコットが「正体不明の魚雷」の乗船を拒否し、船を下りることになるカークとのやりとり。若い船長の目は、「命令」だと魚雷の乗船を許可するように諭すが、頑固な機関主任が首を縦に振るはずはないと思っている。カークもスコットも半ばお互いをわかっていて譲らないのである。
後にカークはスコットに大仕事を頼むことになるが、船を下りたクルーに仕事を頼むカークと、それを渋々な顔をして受けるスコットの表情が興味深い。
カークは策士である。実は、テレビ版の「スタートレック」でカーンがカークを評して言っていた言葉でもある。総じて「スタートレック」シリーズの艦長たちは、余程のことがない限り、殺し合いを避け腹の探り合い、すなわち「外交」をする。
スポックは、カークにお小言を言い続ける。バルカン人のスポックが非論理的なカークにお小言をいうのは当然のことだ。だが、役割として必要とされているから、と認識しているからでもある。
激しい感情を持つカークは自分を知っていて、自分のブレーキ弁として、そのままのスポックを受け入れる。
策士であることは、「人たらし」だな、とも思う。
だがその「人たらし」のテクニックは、相手をそのまま受容してこそだ。権力や欲望で、押しつけることはしない。
スコット機関主任の代わりを、気弱な天才、チェコフに出来るはずはない。だがチェコフに全部任せている。だからこそ、ピンチのときにも機関室にいた彼は、カークとスコットの命を救うが、そのときの顔がどこか誇らしげだ。
それに引き替え、カーンは取引を持ちかける。
地球では、病気の子供を持つ父親に。それにカークやスポックにも。おそらくマーカス提督とも。
カーンは、自分の持ちかけた取引を相手が受けると想定して持ちかける。取引の内容は、悪魔が願いを叶えてやるから魂を売れ、というのと似ている。だが、その取引を、カークは否定し、スポックはウラをかいた。
カーンはカークに、エンタープライズに、勝てない。少なくとも簡単には。
テレビシリーズ「スタートレック」のリブート作品である。だが、2作目となるこの作品で、登場人物は「らしさ」を主張しだした。その「らしさ」はテレビシリーズに通ずる「らしさ」である。つまりは、彼らの意志は揺るぎなく、それこそが遙かに強大な敵に立ち向かい、未知なるフロンティアを生き抜く力なのである。
ベネディクト・カンバーバッチ氏が目立つ作品である。今回は、まだどこか、共感させる設定があるカーンだったが、スポック@ニモイ氏の警告通りな冷酷なカーンを、カンパーパッチ氏で正直見てみたいと思った。スポック@クイント氏との遺恨も残ったことだし。いや、それ以上に、カーンという優生種が作りたいと思うおそらくは自分たちが中心となった世界を、カンバーバッチ氏がそう創出するか、気になったりする。
映画鑑賞後に、テレビシリーズ「スタートレック」でカーン(おそらく初出)を観た。カーンに歓待の場をもうけながら、カーンから情報を引き出そうとするカークは、スポックに厳しい質問をさせ、自分は擁護の立場をとる。それをカーンが見破り、「船長は策士」と指摘する。指摘できるカーンは天性のリーダーであり、この回の話の中には、ナポレオンなど歴史に名を残したリーダーが要素として絡んでくる。かつてナポレオンが想像した世界、歴史上のリーダーが想像した世界があれば、カーンにもカーンが作りたいと願う世界があることだろう。
映画で覧たエンタープライズクルーの揺るぎない意志は、私の記憶の中にあったものだった。だが、見直したテレビ版でも、カーンはやはりエンタープライズクルーに取引を持ちかけていたが断固拒否するクルー達がいた。
やっぱりな、嬉しいな、と内心、ほくそ笑んでしまった。