水がある限り金魚は泳ぐ

本と読書と映画とドラマ、そして雑文。

グロさを笑う、そして鑑賞する。

  海外ドラマの「ハンニバル」鑑賞中。なんとも形容しがたい死体が出てくる。観るのを憚れるような死体である。それは死体を切り刻むことに躊躇しない犯人が、まるで芸術のようにオブジェを作る。観るものはもちろん、その以上さに拒否反応を示すのだが、吐くほどその造形は黒くなく、むしろ、美しくさえ見えてくる。

 

 そうだ、ドラマの中の犯人は死体を死体以上のものとしてオブジェを作るのだから、物語の作り手である、実際にそのオブジェを作っているスタッフたちは、その犯人の美意識に叶うものを作っているはずなのである。

 

 普通の美意識なら許されざるもの。だが、犯人にその意識はない。

 

 という、造形を作るスタッフが作り出すのだから、それはもちろん死体ではない原材料で均整の取れたオブジェとなる。

 

 同時に思い出すのは「死霊のはらわたリターンズ」という海外ドラマ。血しぶきが売りのホラーものは、大量の血しぶきが定番になり、思わず、そのやり過ぎ感に笑みが溢れる。だからこそ、コメディ要素のあるホラーになっているのだ。もちろん、グロい造形のオンパレードなのだが。

 

 グロさに対する反応は一つではないのだ。それは人が機械でない証拠の一つとも言えると思う。