水がある限り金魚は泳ぐ

本と読書と映画とドラマ、そして雑文。

あのときのように倹約する生き方

 

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 モノの価格設定というのは、価値が認められるものならば買えるではないか、というものにされていることが多い。

 あと100円。

 それで100円以上の価値があるなら100円だすことは損ではない。まるで、消費者のためにあるような価格設定なのだが、100円の出費が一定の期間内で1万回あれば、100万円の売上なのである。

 

 実家暮らしではあったが、昼の事務職で月収8万円の中から夜間の大学の授業料や教材費やらの費用を捻出し、もちろん、ある程度の日常生活で出費し、しかも、夢でもあった中国旅行へ行くためのお金を貯めながら生活していた頃があった。大学の授業料は、昼の大学よりは格段に安かったが、余裕のある生活ができたはずはない。ただ、ひとつ、言い添えておくと、家庭の事情よりも自分に課したところが大きくはあった。それでも、使える知恵は使いまくって、なおも、ユースホステルと周遊切符を使って格安旅行もしていた(それが可能でもあった)。大学の連中も、似たようなものだったし、大学のある町もそれを受け入れてくれていた。思い出せば、楽しかった、という記憶がある。

 学生ではなくなり、少しお金を使えるようになり、贅沢の仕方もあの頃よりは覚えた。学生の頃の暮らしなら、ある程度の物差しで語れるが、今の暮らしがどうなのか、は「今」の私には正直に何も言えない。

 ただ、人生波有りで、ピンチは忘れた頃にやってくる。

 それでもあの頃のように倹約していたときのことを思い出すと、何も怖くはないような気もするのだ。若かったし、時代も今よりは余裕があったかも知れないが、経験という力で乗り越えていけばいい気がする。

 

 「キング」という堂場瞬一氏の小説を読んだ。ドーピングというのは、最初は無料でも、常用が必要になれば金額ははね上がる。同時に体も蝕むのだ。だが、それを小説の主人公はそれを拒否する。自分にもたらされたかもしれない栄光まで一緒に。最初は価値あるものに払っているつもりでも、止められなくて払い続けなければなっているモノが私にはどれほどあるだろうか。

 

 必要なら100円も価値がある。だがいらないものには100円も無駄になる。

 

  年齢とともに増えていくものは少なくはない。それは勲章でもあり、誇りでもある。だが無くてもいいものであれば手放していかないといけない。

 あの頃のとびきり明るい苦労はもまた、自分のものなのである。