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「進撃の巨人」実写映画感想。「駆逐してやる」に至るまでの道程

 エレンは実写も巨人になるとは思ってはいた。映画を面白くするならそうくるはず。そういう展開じゃないんなら面白くなるはずないから エレンが巨人として覚醒するまでが前編、でいいのだと思って観てた。だって、ウルトラマンでも仮面ライダーでも、どういう経緯で変身できる存在になるのかは、大きな見所なのだ。そしてそれは、主人公の性格を大きく表現する仕掛けでもある。

 

 前編は確かに、エレンが巨人になるまで、で合っていた。

 でも、それまでの道程が、私の記憶が間違っていなければ、何か物足りない。

 ミカサは死んでなかった。

 アルミンを無事助けた。

 そして。

 巨人の飲み込まれたエレンは、体液まみれの中で「父親になって欲しい」と迫ってきた女性が消化されているのを見て、激情に駆られる。

 何度も、私は記憶の間違いであることを願っていた。

 ミカサの、アルミンの死によって激情に駆られたのではない。

 今回、少しばかり共に行動し、男と女の関係になる序盤にいた女性の死をみて火がついたのだ。心の優しい青年だとは思う。知り合いの命が消えるのが許せなかったのだと思う。でも映画としてはどうだろう。

 

 「子供のために兵団に入り、生きて戻ると誓った女性」の死がエレンを覚醒させたとしよう。生きて子供と暮らすには父親が必要と考える女性の設定は理解できる。(巨人ではあったが)赤ん坊のなきごえにも敏感に反応する母性の持ち主で、後編の伏線であるかも知れない赤ん坊の巨人を登場させるには絶好の登場人物かもしれないと思ってはみても、エレンにとって、彼女が巨人に覚醒する直前のエピソードなのは、どうしてもスンナリと入ってこれないのである。

 

 ミカサ、生きてたよね。

 アルミン、必死で救ったよね。

 

 自分の発想が後編で間違いだと正させる可能性ももちろんある。でも、エレンが巨人になるまでの縦糸の時間軸としてはどうも、受け入れられない。

 

 思わず、長大な物語を短縮しまくりつつ、伏線を拾いまくっていた「寄生獣」という映画の脚本家の名前を思い出す。母親の死をもって闘う泉新一へと変身させた物語は、監督のテイストでもあるなと、いう記憶を思い出す。あの監督の映画なら、父親になって欲しいと迫った彼女は、時間が空いてるときは子供の写真をいつも見ている母性あふれる女性になっていたかも、と思い、エレンにも母を慕う気持ちがあれば、彼女の死が感情を爆発させる引き金になりやすいかも、とも想像した。

 が、その「お涙頂戴」が優れていると思っているわけでもない。

 ただミカサとアルミンが生きているのである。

 教会のシーンで、子供を助けようとしたミカサを、自分の身を顧みず助けようとしたエレンの性格ならば、知り合いの死は覚醒の引き金になってもいい。

 でもミカサが生きていて、アルミンを救い出せて良かったね、と思っていた矢先である。どこかで、あれ?と思っていた。

 原作の「寄生獣」できちんと死体を見て平常心を取り戻し、その平常心に疑問を持つ泉新一の心理を思い出したりする。

 物語に入ってないのだ、私は。

 それとも私の感性が劣化していて、気づけないだけなのか。

 

 そんな風に観ていた「進撃の巨人」なのである。

 

 「巨人」とは何か、とか謎を掘り下げる映画だったらハンジさんの出番だよなと思ったりする。後編はそうなるのか。友情なのか、恋愛なのか。アルミンやサシャが好演していると思えたので、二人の活躍によって絶望が希望になるのか。もしかしてエレンが巨人になり、エレンの犠牲によって物語が収束するのか。

 

 個人的には、「巨人」とは何か、を「生命」とは何かにつなげて、捕食とつなげて、進化とつなげる、興行成績があまりよくならないタイプのSFが好きである。

 

(追伸)

そういえば、一番の敵は「安全」とか「家畜」とかいう台詞もあったな。そういう台詞に依ったテーマの物語だったら、「生命」とつなげて考えたい私はすごく悲しい。生きるために殺すというのは前面に押し出すと物語の答えが単純になってしまう。それは正しい部分もあるけれども、間違っている部分もある、という「受け手によって違う」映画であって欲しいと切に願う。

 

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