水がある限り金魚は泳ぐ

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「永遠の0」映画感想。〜。重い球だ。だが逃げずに受けとめろ。

 原作を読んで観る映画だからこそ。

 

 冒頭シーン。海の上、零戦が母艦に近づいている。胸にストンをおちて来た。原作をイメージさせる始まりだ。そしてこの作品根幹の一つである、宮部久蔵の操縦テクニックのスゴさを表すには、必要な場面である。彼がなぜ、臆病者と呼ばれるほど、無傷で戻ってきたのか。

 なぜ、宮部久蔵の操縦テクニックがスゴかったのか。

 原作では、当時の撃墜王の逸話をはさみ、生き残るための並々ならぬ努力があったことを紹介していた。映画でも搭乗員たちが常に重そうに操縦桿を握り、一人で鍛錬する宮部を井崎が見つける場面がある。

 仕事の技量をあげるには、もちろんさまざまな要素がある。

 だが、必ずその要素の一つとして積み重ねることがあるのだ。「永遠の0」は宮部久蔵の積み重ねたものを、佐伯健太郎が受けとめる物語である。原作では、説明が付加されるが、映画はビジュアルが多くを語るものだ。景浦が最初に合った健太郎には何も語らず、井崎から話を聞いてからの健太郎には全てを語った。佐伯健太郎を、演じた三浦春馬を、私たちは主演の役柄や俳優の力のかげにしてしまいがちだが、彼が宮部を受けとめ損ねればこの映画は駄作になっていたと思う。

 

 重たすぎる事実を受けとめる力を持っていた青年。

 

 健太郎にとっては、宮部は血のつながった祖父である。映画では物語として宮部の人生が語られる。物語を読む側は、宮部の強い意志が、健太郎にも流れていることを感じ取ることだろうと思う。

 だが、とうの健太郎は。

 短い時間にあまりにも重すぎる宮部の人生を聞いて、26歳の若者はどう受けとめただろう。濁流のようにやってきた、宮部の人生。あまりにも重い球だったはずなのだ、健太郎には。受け止め損ね、球の圧力に、立っていられなくなっても誰も責めやしないだろう。

 だが、健太郎は二つの足で立ち続け受けとめたのである。

 

 たった3つの瑕疵が、残念ではあった。

 

 3つだけ、気になる部分があった。その3つとも、制作側の技量の低さではなく、苦しんだ末の結論であった気さえするが、あえて、記録する。

 1つめ。健太郎の出席した合コンで、特攻と自爆テロの話題になった場面

 2つめ。健太郎と宮部久蔵の現代での邂逅

 3つめ。「蛍」がかかるタイミング。

 特攻と自爆テロについては、原作の設定に軍配をあげてしまう。2つめは、戦争が終わった未来に健太郎に見えた宮部が、なぜ、飛行機乗っていたのかということだ。これには、私なりの解釈があり、後述するが、ストンとおちてはいなかったりする。

 最後に、物語と密接な関係のエンディングテーマが、ラストシーンとつながらなかった。意識を失っていただろう宮部が、母艦に落下するあとにかかる音楽のタイミングはどんな名曲もむずかしいだろう、とさえ思う。

 

 生きるために積み重ねたもの

 

 きちんと触れておきたいのは、生きるために積み重ねたものだ。

 宮部の鍛錬は、怠れば即、死につながることを意識した発想にある。墜落した井崎が泳いで帰還したこと、景浦の信念。大石賢一郎と松乃の間にも積み重ねるうちに生まれた愛情が描かれている。小さな積み重ねだ。だが、未来へ続いている。

 

 宮部久蔵の選択

 

 宮部が特攻で死んだ顛末には、自らの教え子たちが先に逝き、同時に戦争が終わったあとのことを考えていた彼の心情が影響している。自分が死んでも宮部を生かそうとした教え子たちがいたように、自分が死んでも教え子たちを生かそうとして宮部がいたのである。

 すごく、扱いが難しいのが宮部が特攻で命を投げ打った選択である。

 戦局によって、戦闘への関わり方は違う。原作で囲碁も強かったという、先見を考える気性の宮部は、映画でも戦局に応じた判断を見せている。冒頭に母艦に見事に着陸した宮部は、「先任の言う通りに着陸した」と言っていた。母艦でも、南方でも、彼は彼なりに情報を収集して物事を組み立て戦場での身の振り方を考えていたのだろうと予想する。

 または、教え子たちを特攻で失うことに耐えられなかったのだとも。特攻に向かうことが、松乃、清子に会うこと以上の、優先事項であったとしても、誰も何もいえないと思う。

 予備士官の武田が、特攻へ行った者たちの気持ちは計りかねると、実直に応える場面があった。

 原作でも、映画でも、特攻と自爆テロについて触れてはいたが、実際のところ、宮部の選択は推測するしかわからない。推測はいくらでもすればいいものだと思う。その一つとして、最後に健太郎は、飛行機に乗った宮部との邂逅したのだと思うし、見送る健太郎が、哭いていたのは、宮部の選択に対する嘆きだとも思えるのだ。否定したのではない、もちろん、感謝でもない。間違っても、肯定なんかしていない。佐伯健太郎は、ただ、嘆いたのだと思う。

  

 

 原作とは違う、映画作品としての「永遠の0」

 

 松乃と清子の写真。この写真の扱いが、原作と映画の違いとなったと思う。

 清子を演じた風吹ジュンが、赤ん坊の自分の写真と、一度だけ会ったという事実を重ね合わせているかのよに、こまやかな演技を見せていた。顔さえも覚えていないだろう宮部を受けとめたのは、健太郎だけではないのである。

 戦争を知らない世代が増えていく。20代、30代の若者だけではない、のである。政治や経済の舵取りをしている世代も、もはや戦争を知らなかったりする。戦乱の時代を生きたのは、誰かの夫、誰かの父であるという時代から、誰かの父でありつつ、誰かの祖父となっている。そんな時代に生まれたのが映画版の「永遠の0」かもしれない。

 VFXディレクターでもある山崎貢監督は、空中戦だけでなく、墜落する零戦を何度も描きだした。母艦にあたらず撃墜される機は本当に儚く散っていった。散ったのは命である。憔悴する宮部が何度も見た光景は、映画として私たちも確かに見ることになる。

 生き残った兵士を演じる名優たちが、とんでもない迫力で自分のセリフを言い放つ場面がそれぞれにあった。若い俳優が好演するのを楽しみながらも、名優達の重さにズシンと心打たれる。人間が演じる映画ならではだ。

 

 

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 戦争の歴史を持ち受けとめることは、とてつもなく重い。真摯に受けとめれば人生は変わってしまうかもしれない。だが逃げてはいけない。正面からぶつかる必要はないし、無理はしなくてもいいのだ。だが、受けとめるべきことだと思う。