嗚呼、人のココロの面倒くささよ。
私はもともとはっきりした意見が言えない面倒くさい奴である。それを相手に説明するときによく話すエピソードがある。小学校んときのとある授業である。
先生は言った。
「自分の影は、右ですか?左ですか?」
細かいことは当然、覚えてない。この質問、右でも左でももちろん正解。小学生の世界観なら、よく外で遊ぶときの自分の影の向きだけ知っていても当然いい。
だが私はこんとき、授業をぶちこわした。
「どっちも〜」
でも、もしかしたら先生の術中にはまった可能性もあるのだが、何しでかしたのかというと、右にも左にもどちらにも手をあげなかったのある。先生のツッコミに、自分の影が右にあった記憶と左にあった記憶があったことを告げ、頭の中は、夕方に街灯の近くで、全方位に重なりあうように存在した影のことを考えていた。
右でも左でもない。どちらも当てはまる。
それもまた答えである。ダブルバインドという言葉に触れたのは大学生になってから。前に勤めていた職場の同僚に話した時、とてもわかりやすい例文を出してくれた。
「良い上司ってダブルバインドかも〜」。
●仕事を任せてくれる。最後までやらせてくれる。(見守ってくれる)
●無理な残業はしてほしくない。体に無理ないように、家族と過ごしてほしい。
どっちも本気の本気で、部下達に良い経験をさせてくれるが、そのために残業が増えることを気にしてくれていたりする。当時の会社にいた上司がそうだったりしたので、二人で苦笑いしてしまっていた。
ダブルバインドの概念は、矛盾に耐えられず、極端に言葉の深読みや言葉通りにしか考えられないようになる原因の例として説明されたりする。
わかりやすくシンプルであることで、面倒くささは激減する。だが人間の影が、右側か左側しかでなければ、太陽は常に影の反対側にしか出ていないことになる。それは仕組みを知ることを放棄したことになならないか。ただただ進まねばならないときは、シンプルなのは便利だとは思うのだが。
「私は嘘つきである」これは、エピメニデスのパラドックスより。
嘘つきと言われている人がいう嘘は、真実なのか嘘なのか。どちらかを選ぶ必要はない。言葉にはこういう側面があるものだ。
「サイク/名探偵はサイキック」の、主人公ショーンの親友、ガスの家族には興味深い家訓がある。お父さんは失業を隠して嘘をつき、お母さんは借金していて、おねえさんは、ショーンと10年前に寝ていた。家族はガスを含めてんやわんやで、大げんか。でも次の日、ショーンが気兼ねして訪ねれば、友人の家は和やかに家族で食事をしていた。
「仲直りをする努力をする予定」があるなら、言いたいことを言い合って、いくらでもケンカしていいのである。けんかと仲直り、全く逆のベクトルである。それを同時にやれるなら、傷つけあうくらいの大げんか、大いに結構!というところか。
人のココロは本当にややこしいが、乗り越える力があるのだ、きっと。