水がある限り金魚は泳ぐ

本と読書と映画とドラマ、そして雑文。

いろんな人のいろんな場所のいろんな箇所の優しい気持ち

 ああ、ここって、みんなで使ってるんだよな、といつも思うのが公衆トイレ。

 壁には小さな表があって、管理してくださっている方の掃除済みの捺印を見る。トイレットペーパーは予備もセッティングされていて、押したらでてくるようになってる。水を出しすぎないように、音を出す仕組みもある。掃除道具ってのは、洗剤はなくなるし、掃除している道具そのものも汚れてくるので、定期的に買い替えたりする必要がある。メンテナンスしてくださる方が必ずいる。

 私もトイレのメンテナンスをする。仕事場で、家で。汚れを見つけたらゴシゴシする。

 

 道路の上で、動物が死んでいるのを見る。時々。見かけたら心の中で手を合わせることにしているのは子供の頃からだ。

 同じ道を通りかかれば、次の日には、元通りになっている。

 死んだ動物はどんな風にどんな人の手でそこから居なくなったんだろう。

 血が付いた道路の血は拭いとられている。そして何よりも小さな命はどのように弔われたのだろうか。それを知らない私にも、何かわかんないけど、罪はあるような気さえする。

 

 ドラマや映画を観ていたら、捜査官や検死官が死体に祈りを捧げているがよくある。日本もんでも海外もんでも。時は金なりとはいう。ほんのわずかな時間でも、祈りを捧げる時間はてんで金にならないのだが、それでも祈りを捧げる。その気持ちに、何の説明がいるものか。 

 覚えているだろうか。初めて葬式に行ったときのことを。

 どんなオトナも初めて葬式に行ったときは幼かったと思う。幼い心で感じた死を覚えているだろうか。

 

 わかっているだろうか。

 何の心配もなく食べている食べ物は、食卓に届くまで、たくさんの人の手を介する。時々報道されるニュースのような危険な食べ物でないのだ。かろうじて安全の範囲内のものらしいのを食べているから、私たちは本当に、かろうじて、そう、かろうじて生きてる。そして、危険なものの混じっているから、ちょっとづつ絶滅にも向かってる。今はまだ、というだけで。

 

 美味しい食事を食べている。その事実は、たくさんの人が感じる事実。そして、美味しいと感じるに至る過程には多くの人と多くの場所が関わっている。

 作ってくれた人に、「この味、美味しいですね」と声かけてみれば、その味を出すための工夫を教えてくれるときがある。骨を長時間煮て出汁を出したとか、わざわざ、美味しい産地まで買い付けにいったとか。その産地の人が美味しいものをつくるための土を産み出すために、長い年月をかけたりしている場合もある。

 

 

  

 エーリッヒ・フロムという人が「自由からの逃走」という本を書いていて、難しいことは抜きにして、自由に服を選ぶのが面倒になったときにおこる現象だな、と思う。というのは、服が選べなかったら制服は便利なのである。決められたことを決められた通りにやると考えなくても済む。5秒間トイレの便器を磨けばオKの方がラクで、キレイになるまでゴシゴシするのか、今日はしんどいから、明日キレイにしよう、とか、考えるのは面倒なものだ。

 死は命の消滅であるように、割り切ることの方がずっと、簡単だ。0か1か。あるかないか。祈りなど必要のない世の中。悲しみは少ないかもしれないが、でもまだ世界はまだそこまで割り切っていない。

 

 いろんな人のいろんな場所のいろんな箇所の優しい気持ちが、まだ、あるのだ。