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愛情の色は何色?〜形而上学的で不可知論的なもの

 形而上学とは、んとに、小難しい学問だ。

 学問って真に深めようとすると手を出しにくくなる。でも、思い切って自分がわかりやすい他ジャンルに横断していいものだと思うのだ。実学として応用してもいいし、芸術にも生かされていいとかね。要は、もっと、自由であればいい。ただ、思索し深め、研究する人への敬意だけは忘れずに。

 

 高橋優さんというシンガーソングライターさんがいる。PVにも歌詞を取り入れることが多い方である。そんなこんなで、たくさん読んでいるうちに、はたと気づいたことがあった。

 社会学的であり形而上学的、というか。

 一概に言えることじゃないけれでも。

 例えば、「発明品」という歌詞は、孤独、というものを何度も分解している節がある。孤独に陥るまでのプロセスが幾つか提示される。恋愛をして別れた後の孤独、就職して辞めた後の孤独。いずれも身近に起こることだ。社会とつながっていたいから、社会とつながれなくなったときに起こる、現代の孤独。プカプカと生まれる泡のような孤独。

 孤独というのは、形があるわけではない。いろんな側面から考えることで存在を確認できたりもする。そうだ、それが孤独。だが確認しなければ、孤独であるかどうかもわからない、それこそ、存在さえ出来ないかもしれない。

 

 もうすぐ結婚をする!という友人と会ったとき、ほぼ100%思うことがあった。二人の間は、メッチャえー感じやなあ〜、て。

 それを「愛」って呼んでもいいのかもだ。で、「感じる」わけだけど、色とか、形とかは説明できなかったりする。でも、あるのだ、「愛」。男性の彼女をみる視線は優しいなあ〜とか、女性の彼をみる視線は、穏やかなだなあ、とか。そんな事柄から推測されるといったところか。分析さえ、照れくさいけど、お幸せに、と思えたりする。

 

 高橋優さんの歌を最後にもうひとつ。「CANDY」という歌。この歌の中では、「愛の味」と「友情の形」を問うている。この歌の主人公は、それを問いながら彼のまだ小さな社会と戦っている。戦わなければならない立場にたって、やっと、問うことができるようになるなんて、まるで、事故が起きなければ危険な道路の消えかけた横断歩道が塗り替えられない実情と似ている気がする。

 

 冒頭で、形而上学について、わざと複数の方の言葉が書かれているページをリンクさせていただいた。形や味がなく、認識できないものを、不可知論として考えないことも有りだし、個人差や、時と場合、という認識だって自由だと思う。でも、存在しているものに、そのまま身を委ねるのではなくて、ちと、時間をおいて、愛の味や、友情の形を意識してみることで、いろんなことがわかる気がするのだ。

 

 一番身近なのは、選挙かもしれないな、と、震災があってから考えてたりする。誰に入れていいかわかんなくなっている現状で、自分が納得する答えを導きだす方法が、存在を探求するこの学問に隠れているような気がしている。