水がある限り金魚は泳ぐ

本と読書と映画とドラマ、そして雑文。

「社会性」と「命」との相関関係。

 道路の真ん中を、悠然と歩く年配の男性がいた。車の量は多くはないが、まるでないわけもない。オッカナビックリで、路肩によりながら男性を避けていく車。道路の真ん中を歩くのには、それなりの事情があるかもしれないが、命あっての物種、見る側はドキドキものだ。

 ケータイで話をしっぱなしの自転車の若者。交差点を渡るときに、右も左も見てない。車の方が彼を避けている。

 曲がり角にある家に住んでいるだろうご婦人は、自分ん家の植木の様子に夢中。注意深く左折しようとする車は見えてなくて、同じ方向にある植木の方ばかり見ていた。

 

「あぶない!」

 と声を出しそうになったが、ギリギリのところで、事故にならずに日常の一コマにように流れていく。

 

 疲れて何も考えられず、ただ呆然と生きることは確かにある。帰巣本能なのか、家には帰れるが、景色は見ていない。頭の中はグルグルと思考を巡らせていたりする。社会と遮断されて殻に閉じこもっている状態。

 その自分で作った社会との殻。

 そんなもんを個人がつくったところで。

 社会からのアクセスは一方的に可能なのである。しかも何が飛んでくるかわからない。いきなり爆弾が、隕石が、天災か、はたまた、人災かもしれない。

 車との関わりを認識すれば、安全に歩ける位置はおのずとわかる。職場を学校を意識すれば、自分の立ち位置を考えることができる、それは、生きているから出来ることに他ならない。

 自分の殻をつくっても関わってくる社会に立ち向かうのは、相手をを知ることしかない。うざいめんどうくさい、邪魔くさい。でも、克とう。